November 21111999

 少年は今もピッチャー黄葉散る

                           大串 章

新作。先週の日曜日(11月14日)に、京都は宇治で作られた句だ。宇治句会の折りに学生時代の下宿先を訪ね、近所の小公園でキャッチボールをする父子を見かけて作ったのだという(私信より)。「今も」が利いている。つまり、いつの時代にも、父子のキャッチボールでは「少年」がピッチャー役となる。逆のケースは、見たことがない。父親がピッチャーだと、強いボールをキャッチできないという子どもの非力のせいもあるが、もう一つには、野球ではやはりピッチャーが主役ということがある。子どもを主役にタテて、父親が遊んでやっているというわけだ。この関係には、日頃遊んでやれない父親としての罪滅ぼしの面も、少しは心理的にあるのかもしれない。休日の父子のキャッチボールでは、とにかく全国的に、この関係が連綿としてつづいてきている。作者は、そのことに心を惹かれている。似た光景を、これまでに何度見てきたことか。その感慨が「黄葉散る」にこめられている。野球好きでないと、このさりげないシーンをこのように拾い上げることはできない。若き日の職場野球での大串章は「キャッチャー」だったと聞いたことがある。(清水哲男)




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