G黷ェ゙瓶句

November 10111999

 七十や釣瓶落しの離婚沙汰

                           文挟夫佐恵

齢者の離婚が増えてきたという。定年退職したとたんに、妻から言い出されて困惑する夫。そんな話が、雑誌などに出ている。誰にとってもまったくの他人事ではないけれど、句の場合は他人事だろう。ちょっと突き放した詠みぶりから、そのことがうかがえる。身近な友人知己に起きた話だろうか。若いカップルとは違って、高齢者の離婚は精神的なもつれの度合いが希薄だから、話は早い。井戸のなかにまっすぐ落下してゆく釣瓶のように、あっという間に離婚が成立してしまう。作者は、半ば呆れ半ば感心しながら、自身の七十歳という年令をあらためて感じているのだ。そういえば、事は「離婚沙汰」に限らず、年輪が事態を簡単に解決してしまう可能性の高さに驚いてもおり、他方では淋しくも思っている。最近必要があって、老人向けに書かれた本をまとめて読んだ。五十代くらいの著者だと、こうした心境にはとうてい思いがいたらないわけで、趣味を持てだの友人を作れだのという提言も、空しくも馬鹿げた物言いにしか写らなかった。なお、作者名は「ふばさみ・ふさえ」と読む。『時の彼方』(1997)所収。(清水哲男)


October 15102001

 釣瓶落しとずるずる海に没る夕陽

                           寺井谷子

語は「釣瓶落し(つるべおとし)」で秋。秋の日の暮れやすさを、釣瓶が井戸の中にまっすぐに落ちることに例えた言葉だ。井戸の底は、いつも夜のように暗い。落ちる釣瓶にしてみれば、あっという間に闇の世界に入るのだから、なかなかによくできた例えではある。しかし、実際の夕陽の沈み具合はどうだろうか。海岸で眺めている作者の頭には「釣瓶落し」の例えが入っているので、かなりの速さで「没る(「おちる」と読むのだろうか)」だろうと期待していたのだが、案に相違して「ずるずる」という感じでの落日であった。この句に目がとまったのは、私も「ずるずる」にやられたことがあるからだ。8ミリ映画に凝っていたころ、水平線に沈む太陽を完全に没するまで長回しで撮影しようとした。長回しといっても、フィルムは一巻で3分20秒しか回せない。日没時刻を調べていかなかったので、秋の日は「釣瓶落し」を頼りに、いい加減なタイミングで撮影をはじめたところ、まだ沈まないうちに3分20秒のタイムリミットが来てしまい、完璧に失敗。そのときに思ったことは、「釣瓶落し」の例えは山国での発想だろうということだった。つまり、秋になると太陽の高度が低くなるので、日差しが夏場よりも早く山々に遮られ、夕闇は当然それだけ早く訪れる。例えはそのことを強調して言っているのであって、べつに太陽の沈むスピードには関係がないわけだ。「速さ」と「早さ」の混同を、この季語は起こさせる。すなわち「釣瓶落し」は、山に囲まれた地域限定の季語と言ってよいだろう。『人寰』(2001)所収。(清水哲男)


September 0592003

 定席は釣瓶落しの窓辺かな

                           西尾憲司

語は「釣瓶落し(つるべおとし)」で秋。秋の日は井戸の中にまっすぐに落ちていく釣瓶のように、暮れるのが早い。行きつけの喫茶店か、あるいは飲み屋だろうか。いつも座る席は決まっている。その窓辺から春夏秋冬の季節のうつろいを見ているのだが、このときにはまさに釣瓶落しといった感じで、暮れていった。日中の暑さは厳しくても、季節はもうすっかり秋なのだ。そう納得したのと同時に、作者の胸をちらっとよぎったのは、おそらくはこれからの自分の人生に残された時間のことだろう。若いうちならば思いも及ばないけれど、ある程度の年齢になってくると、何かのきっかけで余命などということを思ってしまう。まさかまだ釣瓶落しとは思いたくはないが、かといって有り余るほどの時間が残されているわけでもない。と、深刻に思ったのではなく、あくまでもちらっとだ。そんなちらっとした哀感が読者の胸をもかすめる仕立てが、いかにも俳句的である。上手な句だ。「定席」といえば、私もわりに窓辺の席を好むほうだ。窓辺がなければ、隅っこの席。電車だと、できるだけ後方の車両に乗る癖がある。学生時代に、友人からそういう人間は引っ込み思案だと聞かされて、なるほどと思った。だったら、今後は意識的に真ん中や前方を目指すことで、いつかは外向的な性格に転じるはずだと馬鹿なことを考えた。が、かなり頑張ってはみたものの、効果はちっとも表われないのであった。いつの間にか、また隅へ後へと戻ってしまい、今日に至る。『磊々』(2002)所収。(清水哲男)


November 02112004

 時計塔鳴り出で釣瓶落しかな

                           和田敏子

語は「釣瓶(つるべ)落し」で秋。秋の落日は、井戸の中に真っすぐに落ちていく釣瓶のように早い。旅先での句だろう。夕刻、不意に聞き慣れない打刻音が聞こえてきた。オルゴールの音色かもしれない。思わず振り仰ぐと「時計塔」が建っていて、そこから聞こえてきた音だった。時計塔の背後の空には、折りしも釣瓶落しの秋の日が……。これも旅情の一つである。この句の生命は「鳴り出で」の「出で」にあると思う。むろん音そのものが「出で」が第一義だけれど、同時にこれは時計塔が忽然と出現したような感じを含んでいる。たとえば「鳴り出し」と詠んだのでは、この感じは出てこない。ここらへんが、俳句表現の微妙なところだ。時計塔からではないが、昨秋故郷を訪ねた折りに人影の無い山道を歩いていたら、いきなりサイレンが聞こえてきて、ちょっとびっくりさせられた。時計を見ると午前11時50分で、それがお昼時を知らせるサイレンだと知れた。そういえば子供の頃に朝昼晩と役場のサイレンが鳴ったことを思い出して、まだ続いていたのかと二度びっくり。野良仕事や山仕事の人たちに時刻を知らせるサイレンなのだが、腕時計などが高価だった昔ならばともかく、いまでもそんな必要があるのだろうか。携帯ラジオだって、あるのに。野の仕事なので腕時計を嵌めて働くわけにはいかなくても、携帯の方法はいろいろあるだろう。と、首をかしげながら友人宅を訪れ、サイレンが何故必要なのかを聞こうと思っているうちに、他の話にまぎれてしまった。『光陰』(2002)所収。(清水哲男)


November 17112005

 書庫梯子降りずに釣瓶落しかな

                           能村研三

語は「釣瓶落し」で秋。夕陽の沈み方の例えだが、なるほど秋から冬の日没はあっという間だ。誰が言い出したのかは知らねども、うまいことを言ったものである。もっとも、最近では「釣瓶(つるべ)」そのものが無くなってきたので、我々の死後には確実に死語となるだろう。誰か、いまのうちにうまいこと言い換えておけば、近未来の季語として認知される可能性は大である。それはさておき、掲句の面白さは、どこにあるのだろうか。「書庫梯子」は、そんなに高くはない。高くても、せいぜいが大人の背丈くらいかな。書庫は書籍を保護する必要上、明かり取りの窓は大きく作られてはいない。小さな窓が、天井に近いところあたりにぽつりぽつりとつけてある。だから、床に立っていると表は見えない理屈だが、著者は梯子に乗っていたので、たまたま見える位置にいたわけだ。資料探しに夢中になっているうちに、ふと外光の変化に気がついた。で、小さな窓から表を見やると、まさに釣瓶落しの秋の陽が沈んでゆく。もうこんな時間か、そろそろ引き揚げなければ。と思いつつも、そのまま作者は梯子を「降りずに」、しばし釣瓶落しに魅入られたかのように動かなかったのだった。降りる夕陽と、降りない私と……。もとより夕陽と私の位置の高さはとてつもなく違うのだけれど、そういうことに関係なく、巨大な夕陽が早く降り、小さな私が降りずにいるというコントラストには微笑させられる。私もそうだが、たいていの人は書庫や図書館から出てくると、人工的な町並みよりも並木だとか遠い山並みなどの「自然」にひとりでに目がいってしまうものだろう。それを梯子のおかげで、本だらけの環境のなかで体験できたと詠んだところに、作者の鋭敏な神経が見てとれる。現代俳人文庫『能村研三句集』(2005・砂子屋書房)所収。(清水哲男)


November 03112008

 よく喋る女に釣瓶落の日

                           飯田綾子

いぶんと古い言い回しに思えるが、山本健吉が提唱して定着したというから、「釣瓶落(し)」はかなり新しい季語なのだ。でも、もうそろそろ廃れる運命にはあるだろう。肝心の「釣瓶(つるべ)」が消えてなくなってしまったからだ。日常的に井戸から釣瓶で水を汲んだことのある人も、みんな高齢化してきた。句意は明瞭だ。暗くなる前にと思って買い物をすませてきた作者だったが、家の近所でばったり知り合いの主婦と出会ってしまった。そこで立ち話となったわけだが、この奥さん、とにかくよく喋る人で、なかなか話が終わらない。最初のうちこそ機嫌よく相槌など打ってはいたものの、だんだん苛々してきた。そのうちに相槌も曖昧になり生返事になってきたというのに、相手はまったく頓着せず、油紙に火がついたように喋りつづけている。なんとか切り上げようとタイミングを計っているうちに、ついに釣瓶落しがはじまって、あたりは薄暗くなってくる。冷たい風も吹き出した。しかしなお、延々と喋りやめない「女」。夕飯の支度などもあり、気が気でない作者のいらだちは、他人事だから可笑しくもあるけれど、当人はもう泣きたい思いであろうか。結局、別れたのは真っ暗になってからだったのかもしれない。滑稽味十分、情けなさ十分。とかくこの世はままならぬ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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