November 02111999

 栗剥くは上手所帯は崩しても

                           小沢信男

の剥(む)き方は、あれでなかなか難しい。剥いているのは女性だろう。それも、小さな飲屋の「おかみ」というところか。客の前で生の栗を剥くはずはないから、茹でた栗か焼き栗かを、実に器用に剥いている。剥きながら、問わず語りに過去の不幸を語っているのかもしれない。栗を上手に剥くことと所帯をうまくやっていくことの間には、さしたる関係もないのであるが、作者はいささかの好意をもっている女性だけに、その関係を濃いものとしてとらえている。こんなに器用なのだから家事全般については、何の落ち度もなかったろうに……。人生はうまくいかないものだなア、と。このとき「所帯は崩しても」に皮肉の意図はなく、哀感を強調するための用語法である。大きな「所帯」と小さな「栗」との対比が利いている。彼女が所帯を崩すには、もとよりそれなりの事情があったのだろうが、そこまでを直接尋ねるわけにはいかない。たいていの身の上話は、どこかに曖昧な要素を残しながら終わってしまうものだ。それでいいのである。小津映画の一シーンのような句だとも思った。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)




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