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October 25101999

 魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも

                           正木ゆう子

わず、笑ってしまった。愉快、愉快。「魔がさす」に事欠いて、糸瓜(へちま)になってしまったとはね。作者の困惑ぶりが、周囲の糸瓜にとりあえず「どうもどうも」と挨拶している姿からうかがえる。どうして糸瓜になっちゃったのか。なんだかワケがわからないながら、とっさに曖昧な挨拶をしてしまうところが、生臭くも人間的で面白い。でも、人間はいくら「魔がさして」も糸瓜にはなれっこないわけで、その不可能領域に「魔がさして」と平気で入っていく作者の言葉づかいのセンスはユニークだ。大胆であり、不敵でもある。もしも、これが瓢箪(ひょうたん)だと、面白味は薄れるだろう。子供の頃に糸瓜も瓢箪も庭にぶら下がっていたけれど、生きている瓢箪は、存外真面目な顔つきをしている。そこへいくと、糸瓜はいつだって、呑気な顔をしていたっけ。私も「魔がさし」たら、糸瓜になってみたいな。昔は浴用に使われたとモノの本にも書いてあり、私も使った覚えはあるのだが、今ではどうだろうか。もはや、無用の長物(文字どおりの長物)と言ったほうがよさそうだ。ここ何年も、糸瓜のことを忘れていた。この句に出会って、それこそ「どうもどうも」という気分になっている。俳誌「花組」(1999年秋号)所載。(清水哲男)


September 0692003

 はるばると糸瓜の水を提げてきし

                           星野恒彦

語は「糸瓜(へちま)」で秋。前書きに「岳父信州より上京」とある。三十年ほど前の句だから、当時の信州から東京までは「はるばると」が実感だったろう。そんな遠くから、岳父(義父)が「糸瓜の水」を提げてやってきた。娘、すなわち作者の妻へのお土産だ。自宅で採水したものを一升瓶に詰めてある。そのころの化粧水事情は知らないが、たぶんこうした天然物の人気は薄かったのではあるまいか。そんな事情にうとい父親が、壊れやすくて重いのに、はるばると大事に抱えて持って来た親心。もらった側では、その物にさして有り難みを感じなくても、その心情には頭が下がる。句は言外に、そういうことを言っているのだと読んだ。いつか書いたような気もするけれど、一つ思い出した話がある。こちらは四十年ほど前のこと。東京で暮らす友人のところに、叔父から電話がかかってきた。東京駅にいるのだが、もう動けないので迎えに来てくれと言う。山陰に住んでいる叔父で、農協か何かの旅行で北海道に出かけたことは知っていた。うだるような暑い日だったから、てっきり急病で下車したのかとタクシーで駆けつけてみたら、ホームで真っ赤な顔をした叔父が、大きな荷物に腰掛けて心細そうに団扇でぱたぱたやっている。どうしたのかと尋ねると、破顔一笑、立ち上がった叔父が腰掛けていた荷物を指して曰く。「お前にな、どうしても本場のビールをのませてやりたくて」。見ると、その箱には大きく「サッポロビール」と書いてあった。むろん、そこらへんの酒店で売られているものと同じだった。ちょっといい話でしょ。『連凧』(1986)所収。(清水哲男)


October 19102004

 へちま水作る気なりと触れ回る

                           立松けい

語は「へちま(糸瓜)」で秋。昔の我が家にもぶらんぶらんとなっていたが、母が「へちま水」(化粧水)を作っていたかどうかは知らない。ただ名称は知っていたので、自宅で作っている人は多かったのだろう。ネットで調べてみると、作り方はかなり面倒くさそうだ。「へちまの実をとったあと、地上から50〜60cm位のところで茎をカットして一升瓶、もしくはペットボトルの口に茎の先端を差し込み,異物が入らないようにラップ等で固定します、茎の根本に水分を十分補給して1日後くらいに回収します」……。ここまではだいたい想像がつくけれど、回収した後で今度はフィルターで濾過し、雑菌処理のために煮沸しなければならない。となると、相当に時間のかかる作業だ。加えて、腐りやすいので防腐剤をどうするかなどの問題もあるようで、普通なら「買ったほうが安い」と思うのではなかろうか。そんなへちま水を、作者は自力で作ろうと思い立った。でも、途中で挫折するかもしれない。しかし、ちゃんと作ってみたい。ならばと一計を案じたのが掲句で、友人知己に「作る気なりと触れ回る」ことによって、後に引けない状況に自分を追い込んだというわけだ。句としての出来映えよりも、そうした手の内をさらしたところが面白く、作者の人となりにも好感を持った。俳句でないと、こういうことをさらりと言うのは、案外と難しいものである。『帆船』(1998)所収。(清水哲男)


April 0542007

 子供よくきてからすのゑんどうある草地

                           川島彷徨子

らすのゑんどうは子供達になじみの春の草花だ。4月から5月ごろに赤紫の小さい花とともにうす緑の細い莢ができる。先っちょにくるくる巻いた蔓も愛らしく、明るい莢の中には粟粒ほどの実が一列にならんでいる。その先端を斜めにちぎり、息を吹き込んでブーブーッ鳴らして遊ぶ。カラスノエンドウの呼び名の由来は人間の食べるエンドウより小さく、スズメノエンドウよりはちょっと大きいからとか。植物の名前にカラスやスズメがつくのは大きさの目安であるようだ。昔は町のあちこちに掲句のような草地があった。放課後女の子が誘い合ってはシロツメ草で花冠を作ったり、四つ葉のクローバーを探したりした。「子供きて」だと、子供が来た草地をたまたま目にしたという印象だが、「子供よくきて」と字余りに強調した表現から、春の草花が生い茂る近所の草地に子供達が毎日賑やかに集まって来る様子がわかる。彼らを見る作者の目が優しいのは自分の子供時代の思い出を重ね合わせているからだろうか。暑くなればカラスノエンドウは荒々しい夏草に覆い隠されてしまう。次に子供達の遊び相手になるのは何だろう。そんなことを楽しく思わせる句だ。彷徨子(ほうこうし)の作品は眼前を詠んでもどこか郷愁を帯びた抒情を感じさせる。「夏休の記憶罅だらけの波止場」「鶏小舎掃除糸瓜に幾度ぶつかれる」『現代俳句全集』二巻(1958)所載。(三宅やよい)


September 0592007

 片耳は蟋蟀に貸す枕かな

                           三笑亭可楽(七代目)

蟀(こおろぎ)は別称「ちちろむし」とも「いとど」とも。古くは「きりぎりす」とも呼ばれ、秋に鳴く虫の総称でもあったという。今やコンクリートの箱に棲まう者にとって、蟋蟀の声は遠い闇のかなたのものとなってしまった。片耳を「蟋蟀に貸す」といった風流(?)などとっくに失せてしまった今日この頃である。部屋の隅か廊下で、あるいは小さな家の外で、蟋蟀がしきりに鳴いている。まだ寝つかれないまま、寝返りをうっては、聴くともなくその声に耳かたむけている風情である。「枕かな」がみごとであり、素人ばなれした下五ではないか。蚊も蝿も含めて、虫どもはかつて人と共存していた。「片耳はクーラーに貸す枕かな」と、おどけてみたくもなる昨今の残暑である。落語家の可楽は若い頃から俳句を作り、六百句ほどを『佳良句(からく)帳』として書きとめておいた。ところが、あるとき子規の『俳諧大要』を読んだことから、マッチで気前よく自分の句集を燃やしてしまったという。そのとき詠んだ句が「無駄花の居士に恥づべき糸瓜哉」。安藤鶴夫によれば、可楽は色黒で頬骨がとがった彫りの深い顔だけれども、愛敬がなく目が鋭かった。人間も芸も渋かった。そんな男がひとり寝て蟋蟀を聴いているのだ。昭和十九年に自宅の階段から落ちて三日後に亡くなった。行年五十七歳。六〇年代に聴いた八代目可楽の高座もやはり渋くて暗かったけれども、私はそこがたまらなく好きだった。安藤鶴夫『寄席紳士録』(1977)所載。(八木忠栄)


June 1762009

 海月海月暗げに浮かぶ海の月

                           榎本バソン了壱

水浴シーズンの終わり頃になるとクラゲが発生して、日焼けした河童たちも海からあがる。先日(5月下旬)東京湾で、岸壁近くに浮かぶクラゲを二つほど見つけた。「海月」はクラゲで「水母」とも書く。ミズクラゲ、タコクラゲ、食用になるのがビゼンクラゲ。近年はエチゼンクラゲという、漁の妨害になる厄介者も大量発生する。掲出句は海水浴も終わりの時節、暗い波間に海月がいくつも浮かんで、まるで海面を漂う月を思わせるような光景である。実際の月が映っているというよりも、ふわふわ白く漂う海月を月と見なしている。解釈はむずかしくはないが、「海月(くらげ)」と「暗げ」は了壱得意のあそびであり、K音を四つ重ねたのもあそびごころ。「海の月」と「天の月」をならべる類想は他にもあるが、ここはまあそのあそびごころに、詠む側のこころも重ねて素直にふわふわと浮かべてみたい。了壱は「句風吹き根岸の糸瓜死期を知る」というあそびごころの句にも挑戦して、既成俳壇などは尻目に果敢に独自の「句風」を吹きあげつづけている。かつて、芭蕉の「夏草や兵共が夢の跡」を、得意のアナグラムで「腿(もも)が露サドの縄目の痕(あと)付くや」というケシカランあそびで、『おくのほそ道』の句に秘められた暗号の謎(?)をエロチックに解明してみせて、読者を驚き呆れさせた才人である。そう、俳句の詩嚢は大いにかきまわすべし。『春の画集』(2007)所収。(八木忠栄)




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