October 25101999

 魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも

                           正木ゆう子

わず、笑ってしまった。愉快、愉快。「魔がさす」に事欠いて、糸瓜(へちま)になってしまったとはね。作者の困惑ぶりが、周囲の糸瓜にとりあえず「どうもどうも」と挨拶している姿からうかがえる。どうして糸瓜になっちゃったのか。なんだかワケがわからないながら、とっさに曖昧な挨拶をしてしまうところが、生臭くも人間的で面白い。でも、人間はいくら「魔がさして」も糸瓜にはなれっこないわけで、その不可能領域に「魔がさして」と平気で入っていく作者の言葉づかいのセンスはユニークだ。大胆であり、不敵でもある。もしも、これが瓢箪(ひょうたん)だと、面白味は薄れるだろう。子供の頃に糸瓜も瓢箪も庭にぶら下がっていたけれど、生きている瓢箪は、存外真面目な顔つきをしている。そこへいくと、糸瓜はいつだって、呑気な顔をしていたっけ。私も「魔がさし」たら、糸瓜になってみたいな。昔は浴用に使われたとモノの本にも書いてあり、私も使った覚えはあるのだが、今ではどうだろうか。もはや、無用の長物(文字どおりの長物)と言ったほうがよさそうだ。ここ何年も、糸瓜のことを忘れていた。この句に出会って、それこそ「どうもどうも」という気分になっている。俳誌「花組」(1999年秋号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます