October 07101999

 朝露に手をさしのべて何か摘む

                           大串 章

の庭で、たとえば妻が何かを摘んでいる。そんな姿を垣間見た写生句と理解してもよいだろう。実際に、そのとおりであったのかもしれない。しかし、私はもう少し執念深く、句にへばりついてみる。この「何か」が気になるからだ。「何か」とは、何だろうか。と言って、「何か」が草の花であるとか間引き菜であるとかと、その正体を突き止めたいわけじゃない。そうではなくて、この「何か」が句に占める役割が何かということを考えてみている。つまり作者は、故意に「何か」という言葉を据えた気配があるからだ。草の花や間引き菜に特定すると、句からこぼれ落ちてしまうもの。そういうものをこぼしたくないための「何か」を、作者は求めたにちがいない。そう考えて何度も読んでいるうちに、いつしか浮かび上がってきたのが、人の所作のゆかしさである。その露の玉のような美しさ。特定の誰彼のゆかしさというのではなく、古来私たちの生活に根付いてきた所作のゆかしさ全体を、作者は「何か」という言葉にこめて暗示している。こう読んでみると、小さな日常句がにわかに大きな時空の世界に膨れ上がってくるではないか。「百鳥」(1999年10月号)所載。(清水哲男)




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