September 1691999

 鹿になる考えることのなくなる

                           阿部完市

鹿は、秋の季語ということになっている。鹿の振る舞いが、この季節にいちばん派手になるからだろう。間もなく交尾期がはじまると、雄はみなヒョヒョヒューヒューと鳴き(平井照敏『新歳時記』)、他の雄と角突き合わせての雌の争奪戦を展開する。春先の猫の恋もさることながら、なにせ鹿は図体も声も大きいので、昔から大いに気になる存在だったようだ。『万葉集』に「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜(こよい)は鳴かずいねにけらしも」(岡本天皇)があり、ヒト(?)の色事などほっとけばよいのに、上品な人までがやはり気にしている。そんな鹿になったならば、考えることもなくなるなと作者は言う。いや、そのような日常的な仮定を越えて、作者はここで本当に鹿になってしまっているとも読める。鹿そのものに成りきって、自然に考えることのなくなった自分をレポートしていると読むほうが、正確かもしれない。「考えることの」の「の」が、ひとりでに無理なく思考を停止したプロセスを示しているとも読めるからだ。いずれにしても、変に面白い句だ。そしてたしかに、鹿は考え深そうな動物ではない。「子鹿のバンビ」がもうひとつ受けなかったのは、ときどき小首をかしげたりして、そのあたりが鹿の生態とはずれ過ぎていたせいだろう。『阿部完市句集』(1994)所収。(清水哲男)




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