September 1191999

 私生児が畳をかつぐ秋まつり

                           寺山修司

いころに父親を失った作者が、「私生児」に関心を抱いたのは当然だろう。関心の持ち方も、どちらかといえば羨望を覚えるニュアンスのそれであった。彼ほどに父親の不在にこだわり、また母親の存在にこだわった表現者も珍しい。作品のなかで、何度も母を殺している。この句は、二通りの解釈が可能だ。一つは、主人公が畳屋の職人で、秋祭の最中にも仕事に追いまくられているという図。他の若い衆は威勢よく神輿をかついでいるというのに、畳をかつがなければならない身の哀しさ。もう一つは、まさに字義通りに、秋祭でひとり実際に畳をかついでいる男という解釈。外国の実験映画に、波打ち際でひたすらタンスをかついで歩くだけの男たちを撮影した作品があった。日常感覚を逸脱する奇妙なリアリティを感じた覚えがある。句は、その世界に近い。……と、二通りに読んでから、今度は二つの解釈を合体させる。すると、寺山修司の意図した世界が見えてくる。日常的な哀話が下敷きとなって、非日常的な男の行為が目の前に出現すると、句は一つの現実的なオブジェのように起き上がってくるのだ。狂気の具象化と言ってもよいだろう。『花粉航海』(1975)所収。(清水哲男)




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