September 0491999

 一夜明けて忽ち秋の扇かな

                           高浜虚子

語は「秋の扇(秋扇)」であるが、「秋扇」という種類の扇があるわけではない。役立たずの扇。そんな意味だ。一夜にして涼しくなった。昨日まで使っていた扇が、忽ち(たちまち)にして不必要となった。すなわち「秋扇」になってしまったということ。並べて、虚子はこんな句もつくっている。「よく見たる秋の扇のまづしき絵」。暑い間はろくに絵など気にもしないで扇いでいたのに、不必要になってよく見てみたら、なんと下手っぴいで貧相な絵なんだろう。チェッと舌打ちしたいような心持ちだ。歳時記によっては「秋扇」を「暦の上での秋になってもなお使われている扇のこと」と解説していて、それもあるだろうけれど、本意は虚子の句のように、ずばり役立たずの扇と解すべきだろう。優雅でもなんでもありゃしない、単に邪魔っけな存在なのだ。とかく「秋」を冠すると、たいていの言葉が情緒纏綿たる風情に化けるのは面白いが、「秋扇」まで道連れにしてはいけない。「秋」に騙されるな。その意味で、虚子句は「秋扇」という季語の正しい解説をしてみせてくれてもいるのである。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます