August 3081999

 秋灯の交し合ひたる閾かな

                           上野 泰

鹿みたい。次の間との襖が開けっぱなしになっていて、こちらの部屋と次の間とに灯されている電灯の光が、閾(しきい)の上で交差しているというのだ。「秋灯」ならずとも、いつでもこうした現象は見られるわけで、珍しくも何ともない。「秋灯」だから多少の情緒があるにしても、わざわざ表現するほどのことでもあるまいに。私の言葉で言えば、「それがどうした句」の最右翼に分類できる。いい年の大人が、こんなことを面白がって、どういうつもりなのか。と、ほとんどの読者もそう思うに違いない。俳句だから、こういう馬鹿が許されるのだ。ついでに言えば、虚子門だからとも……。なあんて酷評しながらも、最近はこうした「馬鹿みたい」な句に魅かれてしまう。才気溢れる句も好きではあるが、すぐに飽きてしまう。こういうことを言うと、「年齢(とし)のせいだ」と反応されそうだが、正直に言って「年齢のせいだ」と丸くおさめる気にはなれない。「年齢のせいだ」という理屈は、それこそ馬鹿みたいな屁理屈なのであって、とりわけて高齢者が溺れてはいけない言葉の一つだと思う。この句を得たときに、きっと作者も「馬鹿みたい」と感じただろう。あえてそんな「馬鹿」を表現する姿勢に、いまの私は魅力を覚える。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)




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