July 3171999

 坂の上日傘沈んでゆきにけり

                           大串 章

暑の坂道。はるかに前を行く女性の日傘が、坂を登りきったところから、だんだん沈んでいくように見えはじめた。ただそれだけのことながら、真夏の白っぽい光景のなかの日傘は鮮やかである。光景の見事な抽象化だ。ところで、ここ数年の大串章の句には、切れ字の「けり」の多用が目立つ。長年の読者兼友人としては、かなり気になる。「けり」は、決着だ。巷間に「けり」をつけるという文句があるくらいで、「けり」はその場をみずからの意志によって、とにもかくにも閉じてしまうことにつながる。閉じるとは内向することであり、読者にはうかがい知れぬところに、作者ひとりが沈んでいくことだ。もとより「けり」には、連句の一句目(発句)を独立させるのに有効な武器として働いてきた歴史的な経緯があり、その意味で大串俳句はきわめてオーソドックスに俳句的な骨組みに従っているとは言える。が、社会的に連句の意識が希薄ないま、なぜ「けり」の頻発なのだろうか。句の日傘を私は女性用と読んだけれど、そんなことを詮索する必要などないと、この「けり」が告げているような気もする。坂の上で日傘が沈んだ……。それで、いいではないか、と。この光景の抽象化は、この「けり」のつけ方は、作者の人知れぬ孤独の闇を暗示しているようで、正直に言うと、私にはちょっと怖いなと思っている。新句集『天風』(1999)所収。(清水哲男)




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