July 2871999

 草のなかでわれら放送している夏

                           阿部完市

送マンのはしくれとして、目についた以上は、取り上げないわけにはいかない句だ。キーワードはもとより「放送」であるが、さて、どんな意味で使用されているのか。草っ原にマイクロフォンがあるわけもなし、通常の意味での「放送」ではないだろう。普通の意味から少し飛躍して、放電現象のようなことを指しているような気がする。すなわち、暑い夏の野原にある「われら」が、それぞれにそれぞれの思いを、無言のうちに身体から放電しているといった状態だ。主語を「われら」と束ねたのは、それぞれの思いが、お互いに語らずとも、作者には同じ方向に向いていることがわかっているからだ。が、カミュの『異邦人』ではないけれど、焼けつくような太陽のせいで、ここでの「われら」は、もしかすると幻かもしない。周囲には、誰もいないのだ。となれば、いわば「放電」と「放心」の境界で成立しているような句であるのかもしれぬ。ともあれ、暑さを暑さのままに、その最中(さなか)のぼおっとした感覚を半具象的に捉えた句として、記憶しておきたい。『にもつは絵馬』(1974)所収。(清水哲男)




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