July 1671999

 「三太郎の日記」も黴の書となれり

                           湯沢遥子

太郎といっても、漫画の主人公ではない。阿部次郎著『三太郎の日記』の青田三太郎のことだ。一知識人としての人生的哲学的懊悩を書きつづった内省の書とでも言うべきか。大正期から昭和初期にかけてのベストセラーだったらしい。我が書棚でも「黴(かび)の書」となっているが、ひさしぶりに引き抜いてみた。かつての旧制高校生だった叔父から、ずいぶんと昔にもらったものだ。どんな文体だったのか。その一節。「……俺の経験した限りでは酒も畢竟は苦かった。異性も畢竟は人形のやうに見えた。凡ての現実は、閃いて、消えて、虚無に帰する影のやうなものに過ぎなかつた。さうして俺は淋しかつた」。奥付を見ると大正六年の初刷で、昭和十五年には二十七刷となっている。定価は弍円五十銭。岩波書店刊。内容からして女性向きの本ではないので、句の「黴の書」の持ち主は兄弟か、夫か。いずれにしても、もはや誰の手に取られることもない一冊として、書棚の一隅に収められている。本は(そして人もまた)、かくのごとくに老いていくという心持ち。(清水哲男)




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