July 1371999

 夏草や兵どもがゆめの跡

                           松尾芭蕉

は「つわもの」。『おくのほそ道』には「奥州高館(源義経の居館だった)にて」との詞書。添えられた「三代の栄燿一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有……」云々は、すこぶるつきの名文だ。名句名文、文句無し。それはそれとして、芭蕉がこの古戦場に立ったのは、栄華を極めた藤原三代が滅亡して五百年後のことである。時間的には、現代と芭蕉の時代のほうがはるかに近い。私がわざわざここに引っ張りだしたのは、句における芭蕉の気持ちの半分以上は、実は自分のことを詠んでいるのではないのかという思いからだ。芭蕉は、武士だった。といっても生家は半分百姓で、藤堂家に仕えてからも、剣術なんかはさして必要はなかったようだ。いわば武士のはしくれでしかなかったわけだが、ひとたび古戦場に立てば、今日の私たちの感慨とは、かなりの差異があったはずである。若くして主君に先立たれた(それも自殺)芭蕉は、日常的な刃傷沙汰も知っていただろうし、五百年前の軍馬剣戟の響きに半ば本能的に反応する感覚は、十分に持ち合わせていたはずだ。血が騒いだはずだ。だから、このときの芭蕉が、「兵」に重ねて自らの喪失した「武士」を思うのは自然と言うべきだろう。このような解釈をする人にお目にかかったことはないが、私の読みはそういうことである。飛躍して、若き日の主君であった藤堂新七郎への秘めたる鎮魂歌と読んでよいとも。(清水哲男)




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