July 0871999

 ゆやけ見る見えざるものと肩を組み

                           市川勇人

事な夕焼けは、今の都会でもしばしば見る機会がある。虹を見たときと同じように、そのことを急いで誰かに告げたくなる。でも、大人になってからのそんな時間には、たいていが独りぼっちの帰宅途中だったりするから、咄嗟に告げる相手がいない場合のほうが多い。作者も、やはり一人で真っ赤な夕焼けを見たのだ。独り占めにするにはもったいないほどの夕焼けだったので、その思いが高じた末に、「見えざるもの」と肩を組んでいる心持ちになった。このとき「見えざるもの」とは、子供の頃の友人の面影かもしれないし、ゲゲゲの鬼太郎のような親しみのある妖怪であったかもしれない。とにかく、独りで見たのではないと言い張ることによって、夕焼けの見事さが浮かび上がってくる。どこか、ノスタルジックな味も出ている。誰かと肩を組むことを、いつしか我々はしなくなってしまった。代わりに半世紀前まではめったにしなかった握手が日常的なふるまいとなった。肩組みと握手とでは親愛の情の表現の深浅が違うが、我々は情の深さを嫌うようになったらしい。この「我々」という言葉すら、いまや死語に近づいてきた。句はそうした「我々」の幻をも描いている。そこに、ノスタルジーの源泉があるというわけだ。「俳句界」(1999年7月号)所載。(清水哲男)




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