July 0671999

 金魚玉こっぱみじんにとり落す

                           三ケ山孝子

魚鉢は卓上に置くが、「金魚玉」は軒端などに吊り下げる。金魚にはまことに迷惑な話だけれど、見た目に涼しく、夏という季節の良さを感じさせられる。ただし、私などは見るたびに「アブナいなあ」とは思う。危うき物は美しきかな……。ほら、言わんこっちゃない。作者は、たまたま手を滑らせてとり落してしまった。まさに「こっぱみじん(木端微塵)」だ。思わずも、目をつむったにちがいない。で、誰でもが、読後すぐに思うのは、中に金魚がいたのかどうかということだろう。何も書いてないから、そのことはわからない。わからないが、やはり気になる。金魚がいたのであれば、作者は次の瞬間にどうしたろうか、と。たぶん、まず金魚を救いにかかったはずだけれど、何も書いてないからわからない。「それで、どうしたの」と、作者を知っていれば聞きたくなる。ただ、わかることは作者が金魚玉の予想以上の「こっぱみじん」ぶりに驚くと同時に、どこかで爽快感すらを覚えているようだということくらいか……。書きたかったのは、壊してしまった自責の念と同時に発生した爽快感の両側面だ。それで、いいノダ。俳句自体に「それで、どうしたの」と聞いてみても、一般的にはあまり意味がない。そのサンプルみたいな一句である。(清水哲男)




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