July 0371999

 一と股ぎほどの野川の芹の花

                           田村いづみ

(せり)というと春の季語だが、花は夏。水辺で、白くこまかい花を咲かせる。立ち止って観賞するほどの派手さもないけれど、歩きながら目の端にとらえて、束の間すずやかな印象を受ける花だ。句の情景は、まさに我が故郷山陰の野川のそれだと思った。学校の行き帰りに必ず渡る細い川があって、大人ならば「一と股ぎ」のところを、子供のために割り木が二本渡してあった。まるで、文部省唱歌「春の小川」のモデルのような川だった。毎夏、その水辺にひっそりと芹の花があった。芹摘みの記憶は、あまりない。川にはもっとお腹のふくれる「ていらぎ」(方言だと思います。正式な名をご存じの方、教えてください)が群生しており、腹の足しにもならない芹などには、さして関心がなかったせいだろう。したがって、放置されたままの芹は、この季節になるといっせいに花をつけた。子供心にも、ぼんやりと寂しい花のように写っていた。花の記憶は、場所に結び付く。だから、あまりにも違う場所で咲いている花を見ると、なんだか偽物のように感じられるほどだ。その意味からも、この句は私のなかの芹の花にぴしゃりとフィットしてくれた。(清水哲男)




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