June 0961999

 夜の蟻迷へるものは弧を描く

                           中村草田男

の畳の上に、どこからか迷いこんできた蟻。電灯の光の下で、おのれが置かれた異環境から逃れようと、半狂乱の様子で歩き回っている。見ていると、蟻はまさに歩き回っているだけなのであって、同じ弧を描くばかりだ。その円弧から少し外れれば、簡単に脱出できるのに……。思えば人間もまた、迷いはじめるとこの蟻のように、必死に同じところをぐるぐる回りつづけるだけなのだろう。まことに格調高く、句は「迷へるもの」の真髄を言い当てている。説教でもなく自嘲でもなく、作者は冷静に自己納得している。そして、もとより作者は、この蟻を殺さなかっただろう。数多い草田男句のなかでも、屈指の名句だ。わずかに十七文字の世界で、これだけの大容量の世界を表出できる俳人は、そうザラにいるものではない。以下、余談。この句にそってではなかったが、このような趣旨のことを、ある新聞に書いたことがある。ご覧になった作者のお嬢さんが、そのコラムを切り抜いて仏壇に上げてくださったと仄聞した。決して、自慢しているのではない。草田男の仕事の偉大を思う一人の読者として、涙が出るほどに嬉しかったので、どこかに書きつけておきたかっただけ。『来し方行方』(1957)所収。(清水哲男)




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