May 2951999

 休日は老後に似たり砂糖水

                           草間時彦

だ「老後」というにはほど遠い、作者四十代後半の句。だから「老後に似たり」なのであるが、休日が老後に似ているのは、ふと思いついて砂糖水を飲んでみたりする心持ちが、老後の所在なさを連想させたからだろう。今日「砂糖水」と言っても若い人には通じないけれど、なんのことはない、砂糖を水に溶かしただけの飲み物だ。砂糖が貴重だった時代、氷水にして客などにふるまったことから「砂糖水」は立派に夏の季語の仲間入りを遂げている。でも、どことなく頼りないのが砂糖水の味だ。それが休日のように時間だけはあっても、なんだか薄味でつまらなそうな「老後」のありようとして、作者の視野には写っている。もとより、自分の「老後」のイメージは人さまざまであり、どんなふうに想像するのも自由だけれど、いずれは老後をむかえる人間として、句の連想に異議をとなえる人は少ないだろう。そんなところかも知れないな、というわけだ。しかし、この句を「老後」の人が読んだとしたら、どう思うだろうか。かつて詩人の天野忠が七十代のころ、老人でもない人間が、たとえ自分のことにせよ、「老後」や「老人」などと気安く言うでないと書いていたことを思いだす。「ぬるま湯につかったような老人言説」に、まぎれもない老人として、おだやかな筆致ながら猛反発していた怒りが忘れられない。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)




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