May 1751999

 日輪を送りて月の牡丹かな

                           渡辺水巴

の王者と呼ばれる豊麗な牡丹の花は、蕪村の有名な「牡丹散りて打かさなりぬ二三片」をはじめ、多くの俳人が好んで題材にしてきた。巧拙を問わなければ、俳句ではもう何万句(いや、何十万句かもしれない)も詠まれているだろう。いまやどんな牡丹の句を作っても、類句がどこかにあるというほどのものである。すなわち、作者にとって、なかなかオリジナリティを発揮できないのが、牡丹の句だ。この花を詠んで他句に抜きん出るのは至難の業だろう。原石鼎のように「牡丹の句百句作れば死ぬもよし」とまで言った人がいる。とても、百句など作れそうもないからだ。だから、誰もが抜きんでるための苦心の工夫をほどこしてきた。で、水巴の句は見事に抜きん出ている一例ではあるが、しかも名句と言うにもやぶさかではないけれど、なんだかあまりにも技巧的で、逆に落ち着かない感じもする。「月の牡丹」とはたしかに意表を突いており、日本画を見るような趣きもあり、テクニック的には抜群の巧みさだ。しかし、悲しいかな、巧いだけが俳句じゃない。「日」と「月」と大きく張って、しかし、この句のスケールのなんという小ささだろうか。言葉をあやつることの難しさ。もって小詩人の自戒ともしたいところだが、しかし、やはり図抜けた名句ではありますぞ。『水巴句集』所収。(清水哲男)




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