May 1251999

 蟻地獄松風を聞くばかりなり

                           高野素十

ある昆虫の名前のなかで、いちばん不気味なのが「蟻地獄」だろう。地上を這わせると後退りするので、別名「あとずさり」とも言う。こちらは、愛嬌がある。要するに、ウスバカゲロウのちっぽけな幼虫のことだ。一見して、薄汚い奴だ。命名の由来は、縁の下や松原などの乾いた砂の中に擂り鉢状の穴を掘り、滑り落ちる蟻などを捕らえて食べるところから来ている。蟻の様子を観察したことのある人なら、ごく普通に「蟻地獄」の罠も見ているはずだ。句は、そんな蟻地獄が、はるか上空を吹き過ぎる松風の音を聞いているというところだが、これまた不気味な光景と言うしかない。乾いた蟻地獄の罠と、乾いた松風と……。完全に人間世界とは無縁のところで、飢えた幼虫がじいっと砂漠を行くような風の音を聞いているという想像は秀逸にして、恐ろしい。素十はしばしば瑣末的描写を批判された俳人だが、この句は瑣末どころか、実に巨大な天地の間の虚無を訴えている。徹底した写生による句作りの果てでは、ときに人間が消えてしまう。したがって、こんなに荒涼たる光景も出現してくる。『初鴉』所収。(清水哲男)




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