May 1151999

 笋の皮の流るる薄暑かな

                           芥川龍之介

(たかんな)は筍(たけのこ)。「たかんな」なんて漢字がワープロに仕込まれているはずはないと思いつつ、試しに打ってみたら一発で出てきた。びっくりした。俳人以外の誰が、いまどき「たかんな」の漢字を必要とするのだろう。よほどの「筍」好きが作ったワープロ辞書なのだろうか。どうもワープロ・ソフト製作者の意図には不分明なところがある。……と書いて、アップして約9時間後、読んでくださった坂入啓子さんから「たかんな」の漢字が間違っているのではとの指摘があった。あわててよくよく見たら、たしかに大間違い。一発で出てきたのは、「笋」ならぬ「箏」という字だった。辞書の間違いであると同時に、気がつかなかった私の失策でした。ごめんなさい。ちなみに使用辞書はEDWORD6.0版。というわけで、以下が昨日と同じ本文となります。……句意は簡単明瞭。笋の皮が小川を流れていく様子が、ちょうど少し汗ばむような陽気にマッチしたというのである。筍は成長につれて皮を脱ぐが、それが流れてきたというのではなく、誰かが上流で食べるために剥がした皮が流れてきたと解すべきだろう。夏めいてきた気分が、見えない上流の人の食事の用意によって、鮮やかにとらえられている。昔の川は、文字通りの生活用水でもあったので、このような情感も流れてきたというわけだ。川を意識するということは、単に眼前のそれを意識することではなかった。見えない上流も下流も、自然に同時に意識したということで、この句は、読者にもそのような昔の生活者の目がないと、理解はできない。現代の川は、この意味では、もはや川ではありえないと言うこともできそうだ。『我鬼全句』所収。(清水哲男)




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