May 0151999

 落葉松の空の濡れをり聖五月

                           古賀まり子

やかな五月の到来だ。……おっと、イケない。「爽やか」は秋の季語だから、俳句愛好者たるものは「清々しい」とでも言い換えなければなるまい。同様の理由から、甲子園球児のプレーを「爽やか」と言うのは間違いだと、さる「ホトトギス」系の俳人が新聞で怒り狂っていたのを読んだことがある。不自由ですねえ、俳人は(笑)。さて、掲句はまことに清々しくも上品な詠みぶりだ。雨上がりか、あるいは霧がかかっているのか。落葉松林の空を仰ぐと、大気はしっとりと濡れており、そこに一条の朝の光がさしこんでいるという光景だろう。たしかに「聖五月」という言葉にふさわしい「聖性」が感じられる。ところで、この「聖五月」という言い方は、阿波野青畝に「聖母の名負ひて五月は来たりけり」とあるように、元来はカトリックの「聖母月」に発している。「マリア月」とも言う。だから、いまでももちろん「聖母」に崇敬の念をこめた句も詠まれてはいるが、おおかたの俳人は掲句のように、宗教とは無縁の感覚で「聖五月」を使っている。それこそ「清々しさ」から来る日本的な「聖性」を表現している。西洋語を換骨奪胎して、別の輝きを与えた季語の成功例の一つだろう。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます