April 2341999

 春の蔵でからすのはんこ押してゐる

                           飯島晴子

の実家に土蔵があったので、幼いころから内部の雰囲気は知っている。言ってみれば大きな物置でしかないのだが、構造はむしろ金庫に似ている。巨大な閂状の錠前を開けると、もうひとつ左右に引き開ける木製の内扉があって、入っていくと古い物独特の匂いが鼻をついた。蔵の窓は小さいので、内部は薄暗く、不気味だった。子供心に、蔵に入ることはおっかなびっくりの「探検」のように思えたものだ。江戸川乱歩は、この独特の雰囲気を利用して、蔵の中で怖い小説を書いたそうだが、たしかに蔵には心理的な怖さを強いる何かがある。そしてこの句には、そうした蔵の怖さと不気味さを描いて説得力がある。春の陽射しのなかにある土蔵は、民話的な明るさを持っている。微笑したいような光景だけれど、その内部で起きている「劇」を想像せずにはいられない作者なのだ。「からすのはんこ」を押しているのは、誰なのか。「からすのはんこ」とは何か。そのことが一切語られていないところに、怖さの源泉があるのだろう。とくに「はんこ」を押す主格の不在が、読者に怖さをもたらす。実景は「春の蔵」だけであり、後は想像の産物だ。虚子の言った「実情実景」がここまで延ばされるとき、俳句は見事に新しくなる。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)




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