蟄」隱槭′譏・髮キ縺ョ句

April 2041999

 ノートするは支那興亡史はるの雷

                           鈴木しづ子

雷(しゅんらい)。夏の雷と違って激しくはなく、一つか二つで鳴り止むことが多い。自然が少しでも轟くと、人間はちょっぴり疼くという独特の情感。「支那」とあるから、もちろん戦後の句ではない。「支那」と言い張ってきた現代の人である石原慎太郎は、都知事に当選した後で「もう言わない」と言ったようだが、私が子供だったころには「支那」という大人がほとんどだった。「支那」の呼称が正式に「中華民国」に変更されたのは、1930年10月29日のことだ。にもかかわらず、日本人はしつこく「支那」と言いつづけた。侮蔑の表現として、だ。恥ずかしい。句の「支那」は書物のタイトルだからどうしようもないけれど、中国の権力の興亡の歴史を夢中になって書きとめている作者の耳に、ふと遠くで鳴る雷の音が聞こえてきた。ノートしていたところが、ちょうど風雲急を告げるような場面だったのだろう。遠い歴史のストーリーに現在ただいまの自然の急変が混ざり合って、胸を突かれる思いになったというところか。コピー機の普及したいまでは、こうした情感も失われてしまった。ところで、作者は「幻の俳人」と言われて久しい。戦後間もなく矢継ぎ早に二冊の句集を出して俳壇の注目を集めたが、その後はぷっつりと沈黙してしまい、このほど立風書房から出た『女流俳句集成』にも「生死不明」とある。1919年(大正8年)生まれだから、ご存命である確率は高いのだが。『春雷』(1946)所収。(清水哲男)


March 1732004

 春雷や煙草の箱に駱駝の絵

                           横山きっこ

CAMEL
語は「春雷」。春の雷はめったに鳴らないし、夏のようには長くはつづかない。そこにまた、独特な情趣がある。室内での句だろう。あたりがすうっと薄暗くなってきて、思いがけない雷が鳴った。こういうときに、人の心は瞬時内向する。そして急に、それまで気にも止めていなかった机の上の物などに、あらためて親密感を抱いたりするものだ。雷は立派な天変地異のひとつだから、弱い生きものである人間としては、半ば本能的に周辺の何かにすがりたい心理状態に落ちるからだろうか。むろん一度か二度の雷鳴で大きく取り乱すというわけではないが、心の根のところではやはり幾分かは取り乱すのだと思う。そのかすかな心の乱れが、作者に「煙草の箱」を見つめさせることになった。この微妙な心理が読めないと、この句はわからない。どんな愛煙家でも、通常はパッケージの「絵」をしげしげと見つめることなどしないけれど、見つめてみればそこには確実に一つの世界が展開している。「駱駝の絵」だから、銘柄は「CAMEL」だ。掲句に引きずられて、私もつくづくと見ることになり、もう一世紀以上も前にアメリカで描かれたはずの駱駝の絵が、実に見事にアラブ世界へのクールな憧れを示していることに感心したのだった。この駱駝は、たとえば日本の歌の「月の砂漠」の駱駝のようにはセンチメンタルではない。かといって、動物園的見せ物にも描かれてはいない。あくまでも、砂漠の地を悠々と歩む自然体なのであり、背景の遠いオアシスの様子とあいまって、いわば悠久のロマンの雰囲気がうっすらと浮び上っている。このときに、春の雷に一瞬かすかに内向した作者の心は、駱駝の絵の世界で再び開いていったにちがいない。目を上げると、いつの間にか、窓外はまた元通りの春らしい陽気に戻っている。WEB句集『満月へハイヒール』(http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=kikkoJM&P=0)所収。(清水哲男)


March 0332007

 春雷の地平線より来りけり

                           小川龍雄

月三日は上巳(じょうし)、いわゆる桃の節句である。古くは、三月上旬の巳(み)の日に行われたのでこう呼ばれるようだが、現在は三月三日の雛祭として定着している。やはりここは雛の句を、と思い、あれこれ探し求めていたところ、今日は、3.3、にちなんで「耳の日」でもあるという。なるほど、語呂もさることながら、算用数字の「3」が耳に見えてくる。そういえば、時々訪れる都心の庭園でも、冬の間は、池を渡る風が耳元で冷たい音をたてる他は、しんとしているが、先だっての少し春めいた日、もうさえずりが始まっており、残る鴨が明るい水音を立てて光をまき散らしていた。耳で、つまり音で感じる季節感、というのも確かにあるなあ、と思っていたところ、掲句である。雷といえば夏季であり、おおむねとどろき渡る。それに対して春雷は、さほど音も大きくなく、長く続かないことが多い。が、この句の、はるかな地平線の彼方から来る春の雷は、まさに冬眠中の虫の目を覚ますという「虫出しの雷」。低く太く響きながら近づいて来る。春の訪れの喜びも感じられる一句だが、詠まれている大地は中国大陸であるという。背景を知らなくても、確かに大陸を想像させ、大きい景が広がる。中華料理では、おこげに熱いあんをかける音を春雷に見立てる、と聞き、なるほどと納得した。同人誌「YUKI」(2007・春号)所載。(今井肖子)




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