G黷ェリ蓮句

April 0841999

 葉がでて木蓮妻の齢もその頃ほひ

                           森 澄雄

蓮は、葉にさきがけて紅紫色の花を咲かせる。白い花をつける白れん(「白木蓮」とも)も花が先だが、同属にして別種。どちらも「葉がでて」きたら、はなやかさとは縁が切れる。ところで「立てば芍薬、すわれば牡丹」の昔から、女性を花に例えることはよく行われてきた。植物学の牧野富太郎博士は「花は単なる生殖器です」とあからさまな「学問的真実」を書きつけているけれど、もとより古人の言葉には、そういう意味合いは含まれていない。私たちは、女性の姿や立ち居振る舞いに、直感としての「花」の外観的イメージを当て嵌めてきただけである。が、この句のように、正面切って花季の過ぎた植物の風情を当て嵌めるということは、あまり行われてこなかった。例えば「姥桜(うばざくら)」のような一種の陰口はあったにせよ、この句はそういうこととも違うし、珍しい作品だ。見知らぬ女性のことを言ったのではなく、相手が妻だから言えたのだろう……。さらに言えば、愛妻家だからこそ可能な表現だったとも。句は、たしかに女盛りを過ぎた妻をいとおしいと詠んでいる。「頃ほひ」とぼかして首をかしげているようなところに、作者の感情が込められている。しかし、この見立てを夫人は気に入っただろうか。他人がいちいち詮索することでもないが、妙にアトを引く一句だ。このとき、作者は四十代。『花眼』(1969)所収。(清水哲男)


April 1942000

 木蓮や母の声音の若さ憂し

                           草間時彦

ぶん、これは男の心だけに起きる「憂し」だろう。木蓮が咲いた。木蓮は、大きな蕾を得てからも、なかなか簡単には花開かない。今日か明日かと待ちかねていた母が、庭から「ねえ、咲いたわよ。見にきなさいよ」と、はしゃいだ声で作者に呼びかけてきた。彼女の声音は妙に若々しく、そこで作者の気持ちに微妙な憂鬱の影が走る。老いた母に、未だ残っている若い女の性。敏感にそれをかぎ当てて、一瞬「いやだな」と思ったのだ。大袈裟に言えば、母の声に母子相姦への誘いのようなニュアンスを聞き取った……。もとより、母は無意識だ。その無意識がたまらない。たいていの男は、幼時から母を性の外に置いて聖化して生きていく。嘘か誠かは知らねども、よく若い娘が「父親のような人と結婚したい」などと公言したりするけれど、嘘でも男はそういうことは口にできない生き物である。だから、母の側にも一瞬たりとも性的な存在であられては困惑してしまうのだ。どう反応したらよいのか、うろたえることになる。「木蓮」といういささか官能的な感じのする花を配して、句は見事に男の精神的な性の秩序のありようを描いてみせている。深読みではない、と思う。それ以外に「憂し」の根拠は思い当たらぬ。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


March 1232002

 白木蓮に純白という翳りあり

                           能村登四郎

語は「白木蓮(はくもくれん)」で春。この場合は「はくれん」と読む。落葉潅木の木蓮とは別種で、こちらは落葉喬木。木蓮よりも背丈が高い。句にあるように純白の花を咲かせ、清美という形容にふさわしいたたずまいである。いま、わが家にも咲いていて、とくに朝の光りを反射している姿が美しい。そんな様子に「ああ、きれいだなあ」で終わらないのが、掲句。完璧のなかに滅びへの兆しを見るというのか、感じるというのか。「純白」そのものが既に「翳り(かげり)」だと言う作者の感性は、古来、この国の人が持ち続けてきたそれに合流するものだろう。たとえば、絢爛たる桜花に哀しみの翳を認めた詩歌は枚挙にいとまがないほどだ。花の命は短くて……。まことにやるせない句ではあるが、このやるせなさが一層花の美しさを引き立てている。しかも白木蓮は、盛りを過ぎると急速に容色が衰えるので、なおさらに引き立てて観賞したくもなる花なのだ。「昼寝覚しばらくをりし白世界」、「夏掛けのみづいろといふ自愛かな」、「老いにも狂気あれよと黒き薔薇とどく」など、能村登四郎の詠む色はなべて哀しい。『合本俳句歳時記・二十七版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


February 0522008

 いちまいの水となりたる薄氷

                           日下野由季

季に水の上にうっすらと張った氷を透明な蝉の羽に似ているということで「蝉氷(せみごおり)」と呼ぶが、立春を迎えた後では薄氷となる。うすごおり、うすらい、はくひょう、どんな読み方をしても、はかなさとあやうさの固まりのような言葉だ。日にかざし形状の美しさを見届けられる硬質感を持つ蝉氷と、そっと持ち上げれば指と指の間でまたたくまに水になってしまうような薄氷、そのわずかな差に春という季節が敏感に反応しているように思う。自然界のみならず、生活のなかで氷はきわめて身近な存在だが、個体になった方が軽くなる液体はおおよそ水だけ、という科学的不思議がつい頭をもたげる。この現象への詳細な根拠については、普段深く考えないことにする扉に押し込んでいるのだが、こんな時ふいに開いてしまい、結局理解不能の暗部へとつながっている。そのせいか「氷がとける」とは、どこか「魔法がとける」に通い合い、掲句の「いちまいの水」になるという単純で美しい事実が、早春の光によって氷が元の身体に戻ることができた、という児童文学作品のような物語となってあらためて立ち現れてくるのだった。〈はくれんの祈りの天にとどきけり〉〈ふゆあをぞらまだあたたかき羽根拾ふ〉『祈りの天』(2008)所収。(土肥あき子)


March 2032008

 白木蓮そこから先が夜の服

                           小野裕三

だかまだかと楽しみにしていた白木蓮が先週末の暖かさでいっせいに花を開き始めた。「暑さ寒さも彼岸まで」というけど、このまま後戻りすることなく春は加速していくのだろうか。この花の清楚に立ち揃う蕾の姿もいいけれど、ふわりとハンカチを投げかけた開き始めの姿もいい。そう言っても雨風になぶられると、あっさり大きな花弁を散らしてしまうので油断ならない。この頃は散歩の途中で白木蓮の咲きぐあいを見上げるのが日課になっている。きっぱりと夜目に浮き立つこの花は昼とは違う表情をしている。掲句は暮れ時の白木蓮の様子を女性の装いの変化に重ねているようだ。昼のオフィスでの活発ないでたちから夜のパーティ用にシックなドレスに着替えて現れた女性。「そこから先」は暗くなる時間帯を指すとともに装いが変わることを暗示させているともとれる。「はくれん」の響きには襟の詰まったチャイナ服など似合いそうだ。そう思えば細長い花弁を開いたこの花がある時間帯が来ると妙齢の女性に変身する楽しさもあっていよいよ夜の白木蓮から目が離せない。「君たちのやわらかなシャツ四月馬鹿」「菜の花の安心できぬ広さかな」句集全体は現代的な感覚で疾走感があり、取り合わせの言葉の斬新さが印象的である。『メキシコ料理店』(2006)所収。(三宅やよい)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます