April 0341999

 田にあれば桜の蕊がみな見ゆる

                           永田耕衣

の花びらが散ってしまうと、蕚(がく)にはしばらくの間、蕊(しべ)が残る。俳句では、この桜の蕊までをも追いかけて「桜蕊散る」と春の季語にしている。が、句の場合は満開の桜の蕊でなければならない。私たちが普通に花を見るときにも、花びらとともに蕊も見ているわけだが、誰も蕊まで見ているとは思っていない。実際には見えているのだけれど、花びらだけを見ているのだと思っている。花見という行為が遊びであり消費行動なので、いささかうがった言い方をしておくと、生産活動をつかさどる雄蘂や雌蘂に対しては、故意に盲目であろうとするからだろう。ところが、田は生産の場所である。ここで作者が田打ちをしているとは思えないが、田圃の畦道にでも立っているのか、あるいは空想なのか。ともかくも、田という場所を意識して、そこから満開の桜を見上げたときに、目に鮮やかなのは花びらではなくて蕊なのであった。つまり、新しい桜の姿を発見している。昔から「詩を作るより田を作れ」と言う。ならばと耕衣は「田を作って」から「詩を作った」のだと考えてもよいだろう。句は加えて、この国の「詩」の伝統的な主題が「花」であったことを、まざまざと想起させてもいるのである。『加古』(1934)所収。(清水哲男)




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