March 2231999

 たんぽぽの絮吹いてをる車掌かな

                           奥坂まや

間の駅。単線だと、長い時間停車して擦れ違う列車を待つ。少し疲れた客はホームに降りて、背伸びなんかをしたりする。ベテランの車掌はホームの端のたんぽぽ(蒲公英)を無造作に摘んで、いかにも所在なげに絮(わた)をふっと吹いている。その子供っぽい仕草に、作者は好感を覚えつつ、春ののどかさを味わっている。私などにも、とても懐しい光景だ。ところで一点、私は「吹いてをる」という文語調にひっかかった。作者は現代の人なのに、なぜ「吹いている」ではいけないのだろうか。ひっかかったのは、外山滋比古『俳句的』(みすず書房・1998)を読んだ影響もある。外山氏の一節。「俳句は文語によることになっている。どうして文語でなくてはいけないのか、と反問する野暮もない。口語に比べて文語の方が何となく、すぐれているように感じる向きがすくなくない」。句の場合、べつに作者はエラそうにしているわけではないが、多少は「をる」のほうが「すぐれている」と思ったのかもしれない。思ったとすれば、根拠は文語表現のほうが句のすわりがよいという点にあるだろう。すなわち、伝統によりかかっての安心感があるということ。とかく口語の腰はふらつく。が、ふらつく口語と取っ組み合わない文芸ジャンルに、未来は期待できない。俳誌「鷹」(1998年6月号)所載。(清水哲男)




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