March 0831999

 抜くは長井兵助の太刀春の風

                           夏目漱石

井兵助(ながい・ひょうすけ)とは、いったい誰なのか。どんな人物なのか。それがわからないと、句はさっぱりわからない。『彼岸過迄』に、この小説のいわば「狂言まわし役」である田川敬太郎が、浅草でアテもなく「占ない者」を求めて歩くところがあって、この人物が次のように出てくる。「彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父さんから、しばしば観音様の繁華を耳にした。(中略)食物の話も大分聞かされたが、凡ての中で最も敬太郎の頭を刺激したものは、長井兵助の居合抜(いあいぬき)と、脇差をぐいぐい呑んでみせる豆蔵と、江州伊吹山の麓にいる前足が四つで後足が六つある大蟇の干し固めたのであった。……」。つまり、長井兵助は当時の有名な大道商人だった。岩波文庫版の註によると、先祖代々浅草に住み、居合抜で人寄せをして、家伝の歯磨や陣中膏蟇油を売っていた。明治中期ころには五代目が活躍していたというから、句の人物も五代目だろう。それで、句の言葉使いも大道芸よろしく講談調になっているのだ。心地好い春風に吹かれて、見物している漱石センセイの機嫌もすこぶるよろしい。作者の機嫌は、読者にもうつる。理屈抜きに楽しめる句だ。『漱石俳句集』所収。(清水哲男)




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