March 0531999

 あたたかや四十路も果の影法師

                           野見山朱鳥

分の影。五十歳に近い男の影法師。病弱だった作者は、暖かさに誘われて庭に出ている。若いころの影とはどこか違い、影にも年輪があることを見いだして、作者はあらためて己の年令のことや來し方を思っている。春愁の心持ちだ。朱鳥は五十二歳で亡くなった(1970)。だから、この句を書いた後、そう長くは生きられなかったことになる。そのことから照り返されてくる哀切……。しかし、こうした事実を知らなくても、句は十分に観賞に耐え得る。人間が時間を心に置き、年令をカウントするのは、究極のところ「死」を意識する結果であるからだ。たとえば、サラリーマンが「四十路の果」で定年までの年数を頭に浮かべたりするのも、その果てには確実に「死」が待ち受けているという認識があるからである。人間に「死」の意識がないとすれば、定年などどうということもない。いや、定年という制度そのものが既にして「死」の観念から逆算されたものだから、定年を思うことは畢竟「死」を思うことなのだ。そこで、句の影「法師」の意味が鮮明に立ち上がってくるということになる。「絶命の寸前にして春の霜」(朱鳥)。「死」の寸前にあっても、なお「寸前」という時間意識にとらわれる怖さ。『愁絶』(1971)所収。(清水哲男)




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