March 0431999

 山路来て何やらゆかしすみれ草

                           松尾芭蕉

書に「大津に出る道、山路をこえて」とある。教科書にも載っており、芭蕉句のなかでも有名な句に入るだろうが、さて、この句のどこがそんなに良いのか。味わい深いということになるのか。まことに失礼ながら、この句の眼目をきちんと生徒に説明できる国語の先生は、そんなにはおられないと思う。無理もない。なぜなら、芭蕉の時代の「すみれ草」に対する庶民的な感覚ないしは評価を、ご存じないだろうからである。当時の菫は、単なる野草の一種にすぎなかった。いまの「ペンペン草」みたいなものだった。贔屓目にみても「たんぽぽ」程度。たとえばそれが証拠に、江戸期の俳句に「小便の連まつ岨(そば)の菫かな」(松白)があったりして、小便の先にも当然菫は咲いていただろう。菫が珍重されはじめたのは明治期になってからのことで、それまではただの草だったということ。詩歌の「星菫派」といい、宝塚の「菫の花咲くころ」という歌といい、菫が特別視されだしたのは、つい最近のことなのだ。だから、この句は新鮮だったのである。つまらない「野の花」に、なにやら「ゆかしさ」を覚えた人がいるという驚き。句からは、これだけを読み取ればよいのだが……。(清水哲男)




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