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March 0231999

 胸ぐらに母受けとむる春一番

                           岸田稚魚

りからの強風によろけた母親を、作者はがっしと胸で受けとめた。俳句は一気の文学である。一気だから、このような情況を詠むのに適している。たわむれに母親を背負ってみた啄木の短歌では、こうはいかなかった。「たわむれ」が既に一気ではないし、まして三歩も歩けなかったという叙述においておや……だ。ここで啄木の説得的叙述に賛同する読者は啄木ファンになるのだし、説得されない人は「ふん」と思うだけである。でも、稚魚のこの句を読んで「ふん」と思うわけにはいかない。一気の「気合い」だけがあって、何も読者に説得してはいないからだ。つまり、説得していない分だけ、読者には我が身に引きつけて観賞できる自由が与えられる。連句から発句を独立させた近代俳句の意義は、こういうところにもひょいと立ち現われる。「春一番」は、立春から春分までの間で、最初に吹く強い南風のこと。気象庁では、風速8メートル以上の南方からの風と規定している。期間限定だから、春一番が吹かない年もあるわけだ。俳句歳時記のなかには、つづけて「春二番」「春三番」「春四番」くらいまでを季語としているものもある。『筍流し』(1972)所収。(清水哲男)


March 2032000

 春一番来し顔なればまとまらず

                           伊藤白潮

春以降はじめて吹く強い南風が「春一番」。元来は、壱岐の漁師の言葉だったという。吹く風の勢いや方角に、並外れた神経を使って生活している人たちも、たくさんいるのだ。それが「春一番」ともなると、とてもキャンディーズの歌のように暢気にはなれない暮らし……。句の「まとまらず」は卓抜な表現だ。思わず、膝を打った。「ひどい風ですねえ」と入ってきた人。強い風のなかを歩いてきたので、髪は大いに乱れ、しかめっ面にして吐く息もいささか荒い。コンタクトを使っている人だったら、おまけに涙さえ流しているだろう。そんな人の顔つきを一瞬のうちに「まとまらず」と活写して、句が見事に「まとまっ」た。なるほど、人間の顔は時にまとまっていたり、まとまっていなかったりする。江戸っ子風に言うと「うめえもんだ」の一語に尽きる。こういう句に突き当たることがあるから、俳句読みは止められない。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


February 1222003

 春一番縁の下より矮鶏のとき

                           半谷智乗

ちゃぼ
語は「春一番」。立春後の強い南風を言うが、元来は壱岐の漁師の用語だったという説。なるほど、風と生活が結びついた仕事ならではの言葉だ。それがいつしか海風と切り離されて使われるようになったのは、どこかの新聞が現在の意味で書いて以来というのが有力な説。マスコミおそるべし。したがって、この季語は比較的新しいものだ。句は、強い風が吹いているので、吹き飛ばされかねない小さな体の「矮鶏(ちゃぼ)」は、「縁の下」にもぐってしまった。でも、かくれながらも、そこは雄鶏らしく勇ましそうに「とき」を告げているというのである。実景としては見えていない矮鶏の愛らしさが伝わってきて、微笑を誘われる。子供のころに矮鶏を飼ってほしいと親にせがんだ記憶があるが、飼ってもらえなかった。他の鶏たちとは違い、卵も売れなければ肉食にもならない。生活の足しにならなかったからだ。あくまでも愛がん用というわけで、飼っている家を思い出すと、みな比較的裕福だった。最近ではとんと見かけないけれど、動物園などにはいるらしい。狭山市立智光山公園こども動物園のサイトから、矮鶏の解説を引いておく。図版も。「江戸時代初期、ベトナムの占域(チャンバ)より渡来したことから、「チャボ(矮鶏)」と名付けられました。小さい体、短い脚など、どこか品位のある可愛らしさは世界的に人気が高く、各国で『チャボクラブ』などの愛好団体が結成されています。また、日本鶏で最も内種が多く、現在25種に達しています」。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




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