February 2621999

 もの忘れするたび仰ぐ春の山

                           黛 執

かにもおおどかで、優しい感受性のある黛執(まゆずみ・しゅう)の世界。俳句もよくした映画監督の五所平之助に手ほどきを受け、すすめられて「春燈」の安住敦に師事したというキャリアを知れば、大いに納得のいく句境である。もの忘れをするたびに、なんとなく春の山を仰いでしまう。作者は湯河原(神奈川県)の在だから、湯河原の山だろう。ただこれだけのことなのであるが、記憶という人為的かつコシャクな営みを、芒洋たる春の山に照らしているところに、なんとも言えない人柄の良さを感じる。映画俳優でいえば、たとえば笠智衆のような人が詠んだら似合いそうな句だと、私には写る。諸作品中の傑作とは言い難いけれど、このように作者の人柄を味わうことができるのも、俳句を読む楽しさの一つだ。話は変わるが、私の「もの忘れ」は三十代後半くらいからはじまった。映画批評なども書いていたので、それまでには絶対に忘れるはずもない俳優の名前が出てこなくなったりしだして、愕然とした。その俳優の仕草や顔もはっきり浮かぶのに、どうしても名前が思い出せない。振り仰ぐ山もなかったので、目がテンになるばかり。容赦なく、迫り來る締切。ついには川本三郎君につまらない電話をしたりして……というようなこともあったっけ。いずれ「もの忘れ論」を書きたいので後は省略するが、言えることは、そんなときに、まずは作者のように泰然としていることが肝要だということである。『春野』所収。(清水哲男)




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