February 1821999

 落ちなむを葉にかかへたる椿かな

                           黒柳召波

っと、どっこい。すとんと落ちかかった花を、かろうじて葉で抱きとめている椿の図。椿は万葉の昔から詠まれてきたが(しかも、落ち椿の詩歌が多いなかで)、このように途中で抱えられた椿を詠んだ人は少ないだろう。「かかへたる」という葉の擬人化もユーモラスで、召波の面目躍如というところ。物事を「よく見て、きちんと詠む」のは俳句作家の基本である。したがって句を作る人たちは、まず「よく見る」ことの競争をしているようなもので、その競争に勝てば、とりあえず駄句は避けられる理屈となる。この句などは、そんな競争に勝つための目のつけどころのお手本だ。こんなふうに詠まれてみて、しまった口惜しいと思っても、後の祭り……。客観写生での勝負には、常に「コロンブスの卵」的な要素がつきまとうのである。だからこそ、常日頃から「よく見」ておく必要があるというわけだ。作者は江戸期の人だから、この椿は和名を「ツバキ」といった「薮ツバキ」のこと(だと思う、あくまでも推定だが)。いまでは椿の園芸品種も多種多様であり目移りするほどだけれど、いろいろ見てきたなかで、結局はどこにでもある「薮ツバキ」の素朴さを、私は好きだ。(清水哲男)




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