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February 1021999

 ごみ箱のわきに炭切る余寒かな

                           室生犀星

寒(よかん)は、寒が明けてからの寒さを言う。したがって、春の季語。「ごみ箱」には、若干の解説が必要だ。戦前の東京の住宅地にはどこにでもあったものだが、いまでは影も形もなくなっている。外見的には真っ黒な箱だ。蠅が黒色を嫌うという理由から、コールタールを塗った長方形の蓋つきのごみ箱が各家の門口に置かれていた。たまったゴミは、定期的にチリンチリンと鳴る鈴をつけた役所の車が回収してまわった。当時は紙類などの燃えるゴミは風呂たきに使ったから、「燃えないゴミ専用の箱」だったとも言える。句の情景については、作者の娘である室生朝子の簡潔な文章(『父犀星の俳景』所載)があるので引いておく。「炭屋の大きな体格の血色のよいおにいちゃんが、いつも自転車で炭を運んできていたが、ごみ箱のそばに菰を敷いて、桜炭を同じ寸法に切るのである。(中略)煙草ひと箱ほどの寸法に目の細かい鋸をいれて三分の一ほど切ると、おにいちゃんは炭を持ってぽんと叩く。桜炭は鋸の目がはいったところから、ぽんと折れる。たちまち形のよい同じ大きさの桜炭の山ができる。その頃になると、書斎の大きな炭取りが菰の隅におかれる。おにいちゃんは山のように炭取りにつみ上げたあと、残りを炭俵の中につめこむのである。炭の細かい粉が舞う。……」。『犀星発句集』(1943)所収。(清水哲男)


February 0522004

 春寒や竹の中なるかぐや姫

                           日野草城

語は「春寒(はるさむ)」。暦の上では春になっても、まだ寒いこと。「余寒(よかん)」と同義ではあるが、余寒が寒さに力点を置くのに対し、春寒は春に気持ちを傾かせている。「通夜余寒火葬許可証ふところに」(田中鬼骨)と、余寒はいかにも侘しい。掲句は想像句だが、しかし作者は実際の竹を見ているうちに着想したと思われる。いまごろの竹林は「竹の秋」間近で、いちばん葉の繁っているときだから、奥の方は昼なお暗い。しかしどうかすると、繁った葉から洩れてくる日差しがあたって、そこだけが美しく光っていたりする。と、ここまで見えれば、あと「かぐや姫」までの連想はごく自然な成り行きだ。なんだか、自分が竹取の翁にでもなったような気分になってくる。あの光っている竹をそおっと伐ってみれば、背丈わずかに三寸の可愛らしい女の子が眠っているはずだという想像は、外気が冷たいだけに、春待つ心を誘い出す。こんなふうに自然を眺められたら、どんなに素敵なことか、気が安らぐことか。一読して、たえずギスギスしている私はそう思った。『竹取物語』は平安期に、相当に教養のあった男の書いた話とされている。子供にも面白い読み物だけれど、大人になって読み返してみると、全編が当時の権力者への批判風刺で貫かれていることがわかる。単なるわがまま美女の物語ではなくて、かぐや姫は庶民に潜在していた「一寸の虫にも五分の魂」という気概を象徴しているのだ。しかし、体制はいまとは大違い。女性の地位も、現代では考えられないほどに低かった。したがって帝(みかど)の求婚まで断わるとなった以上は、死をもって償わねばならない。心優しい物語作者は、姫を満月の夜に昇天させるという美しいイメージのなかに、姫の自死を悼んだのだった。『日野草城句集』(2001・角川書店)(清水哲男)


February 0822005

 いそまきのしのびわさびの余寒かな

                           久保田万太郎

語は「余寒(よかん)」で春。立春以後、まだのこる寒さのことを言う。暦の上では春なのだから、そろそろ暖かくなってもよいはずだがと期待するだけに、よけいに寒さが恨めしくなる。だがなかには作者のように、従容として寒さに従う人もいる。従うどころか、春過ぎの寒さに粋なものだと感じ入っている。「いそまき」は「磯巻き」で、要するに海苔で巻いた食物のことだ。磯巻きせんべいがポピュラーだが、句の場合にせんべいではいささか色気に欠けるだろう。たとえば薄焼きタマゴを高級海苔で巻いた料亭料理などが、私にはふさわしいように感じられる。一箸取って口に含むと、隠し(しのび)味的に入れられた「わさび」の味と香りがほんのりと口中に漂ったのだ。その微妙で心地よい味と香りが、余寒の情緒に溶けていくように想われたというのである。いかにも万太郎らしい感受性の光る句柄だが、世に万太郎の嫌いな人はけっこういて、その人たちはこうしたことさらな粋好みを嫌っているようだ。かくいう私も嫌いというほどではないが、あまりこの調子でつづけられると辟易しそうではある。たまに、それこそ他の作者たちの多くの句のなかに二、三句はらりと「しのばせて」あるくらいが、ちょうど良い案配でしょうかね。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所収。(清水哲男)


March 1432005

 鎌倉を驚かしたる余寒あり

                           高浜虚子

語は「余寒(よかん)」で春。本格的な春も間近というときになって、突然寒波が襲ってきた。それも選りに選って温暖な湘南の地である「鎌倉」をねらったかのように、である。居住している作者自身が驚かされたのはむろんだが、それを鎌倉全体が驚かされたと大きくスケールを広げたところに、この句の新鮮な衝撃力がある。他の鎌倉の住人も驚いたろうが,鎌倉の土地そのものも、そしてさらには鎌倉の長い歴史までもが驚いたと読めるところが面白い。この句について、山本健吉は「淡々と叙して欲のない句」と言っている。「鎌倉の位置、小じんまりとまとまった大きさ,その三方に山を背負った地形,住民の生態などまで、すべてこの句に奉仕する」(『現代俳句』・角川新書)とも……。私はこれに加えて、というよりも、いちばん奉仕しているのは鎌倉という地名が内包している「歴史」なのだと思う。鎌倉幕府の昔より歴史的に濾過されてきたイメージが、読者にぴんと来るからこそ、句は生きてくるのだ。これを鎌倉の代わりに、たとえばすぐ近くの「東京」としたのでは、地形が漠としすぎることもあるけれど、何と言っても歴史が浅すぎて、鎌倉ほどに強いイメージが喚起されることはないだろう。すなわち掲句は、一見「淡々と叙して」いるようでいて、実は地名の及ぼすあれこれの効果をきちんと(瞬時にせよ)計った上で詠めたのだろうと思った。「無欲」という言い方は、ちょっと違うのではなかろうか。『五百句』(1937)所収。(清水哲男)




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