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January 2511999

 寒の坂女に越され力抜け

                           岸田稚魚

体が弱っているのに、寒さのなかを外出しなければならぬ用事があり、きつい坂道を登っていく。あえぎつつという感じで歩いていると、後ろから来た女に、いとも簡単についと抜かれてしまった。途端に、全身の力が抜けてしまったというシーン。老人の句ならばユーモラスとも取れようが、このときの稚魚はまだ三十歳だった。かつての肺結核が再発した年であり、若いだけに体力の衰えは精神的にも悔しかったろう。それを「女に越され」と、端的に表現したのだ。以後に書かれたおびただしい闘病の句は、悲哀の心に満ちている。「春の暮おのれ見棄つるはまづわれか」。裏を返せば、このようなときにまず恃むのはおのれ自身でしかないということであり、この覚悟で稚魚は七十歳まで生きた。没年は1988年。私なりの見聞に従えば、男は総じて短気な感じで死んでしまう。あきらめが早いといえばそれまでだが、なにかポキリと折れるような具合だ。寝たきりになるのも、男のほうが早い。這ってでも、自分のことは自分でやるという根性に欠けている。心せねばなりませぬな、ご同輩。『雁渡し』(1951)所収。(清水哲男)


January 1112000

 寒晴やあはれ舞妓の背の高き

                           飯島晴子

晴。寒中のよく晴れた日。季語のようであるが、これは作者の発明。歳時記での季語は「寒」である。さて、またしても厄介な「あはれ」だ。すらりと背の高い現代娘の舞妓ぶりを見て、「あはれ」と反応しているわけだが、どういう種類の「あはれ」なのだろう。それこそ「すらり」と読んで受けた印象では、どこか危なっかしい美しさに「あはれ」を当てたように思われる。たとえて言えば、寒中に豪奢な芍薬の花を見た感じか。確かに美しいけれど、季節外れだし、いささか丈もありすぎる。伝統美からは背丈ばかりではなく、立ち居振る舞いにおいてもどこか逸脱している。危なっかしい。したがって、美しくも、そして切なくも「哀れ」なのだろう。実は、この句の「中七下五」は秋にできたものだと、講談社『新日本大歳時記』で作者が作句過程の種明かしをしている。大阪のホテルで開かれた出版記念会に、祇園から手伝いに来ていた舞妓を見ての印象だという。「『寒晴』にたどりつくまでパズルのピースを何度入れ替えたことか。季語は、季語以外の部分と同時に絡まるように出てくるのが理想的である。あとからつけて成功するには苦労する。意地で『寒晴』まで辛抱したというところである」。意地を張った甲斐はあり、どんぴしゃりと決まった。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)


January 2512001

 寒の水喉越す辛口と思ふ

                           小倉涌史

中の水は、飲みにくい。というよりも、まずは飲む気もしない。でも、揚句の作者は微笑している。「うむ、こいつは辛口だ」と……。べつに名水などを味わうようにして飲んだわけではなく、単なる水道水を必要があって飲んだだけだろう。薬を飲むなどの必要からだ。「辛口」に引摺られて「ははーん、二日酔いだな」と受け取るのは早とちり。なぜなら、酔いざめの水には「辛口」も「甘口」もへったくれあったものではなく、ましてや「喉越す」味わいの微妙さは意識の外にある。悠長に、したり顔をして「辛口」なんぞと思う余裕はないはずだ。そういうことではなくて、作者は寒い場所で、まったくの素面(しらふ)でいやいや仕方なく水を飲んだのだと思う。意を決して飲んでみたら、意外にも喉元を通る感覚が心地よかった。酒で言えば「辛口」だと思った。寒中の水の味も存外いけるなと、作者は内心でにっこりとしたのだ。この体験の新鮮さに、ちょっと酔っていると言ってもよい。私は痛風(『小公子』の主人公・セドリックのおじいさんと同じ病気。これが自慢?!)持ちなので、医者からとにかく大量に水を飲めと言われている。多量の尿酸を一気に排泄するには、いちばん簡便な方法である。暖かい季節は苦にならないが、冬場はしんどい。早朝の一杯が、とりあえずはきつい。でも、年間を通してみて、水の味がするのはこの季節がいちばんではある。飲むときに、ちらっと逡巡する。その逡巡が、その意識が、口中や喉元に受けて立つ構えを作るからだろう。「寒」には「冷」か。たしかに、かっちりとした味を感じる。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


January 2612004

 花嫁にけふ寒晴の日本海

                           比田誠子

語は「寒」。最近「寒晴(かんばれ)」はよく使われるので、もはや季語として定着している感もあるが、たぶん載せている歳時記はまだ無いと思う。というのも、「寒晴」は飯島晴子が「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」で使って成功し、この句から広まった言葉だからだ。昔からありそうだけれど、実は新しい言葉というわけである。掲句は、言うまでもなく祝婚句。快晴の「日本海」を一望できる披露宴会場の情景で、想像するだに清々しく気持ちが良い。日本海が太平洋と異っているのは、まず、その色彩だろう。日本海のほうが、海の色が濃いというのか深いというのか、太平洋よりもよほど黒っぽい感じがする。太平洋が淡いとすれば、日本海は鮮明だ。ましてや晴れ上がった冬空の下、その鮮明さがいよいよ冴え渡り、「花嫁」の純白の衣裳がことのほか鮮烈に映えている。雪空や曇天に覆われがちな地域だけに、人生の門出としてはまことに幸先もよろしい。作者の花嫁を寿ぐ気持ちが、すっと素直に出た佳句と言えよう。変にひねくりまわさなかったところで、良い味が出た。作ってみるとわかるが、祝婚の句や歌はなかなかに難しい。どう歌っても、どこか通り一遍のような気がして、少なくとも私は一度も「これだ」と自己満足できるような句は作れていない。俳句に限らず、どうやら日本の(とくに近代以降の)詩歌は、パブリックな歓びや寿ぎを表現することが得意ではないらしいのである。『朱房』(2004)所収。(清水哲男)

[読者より]「寒晴」が角川春樹編『季寄せ』(角川春樹事務所)には、季語として採用されている由。例句には上掲の飯島晴子句が載っているそうです。Tさん、ありがとうございました。


November 17112007

 別れ路の水べを寒き問ひ答へ

                           清原枴童

い、は冬の王道を行く形容詞であるが、ただ気温が低い、という意味の他に、貧しいや寂しい、恐ろしいなどの意味合いもある。秋季の冷やか、冬季の冷たしも、冷やかな視線、冷たい態度、と使えば、そこに感じられるのは、季感より心情だろう。この句の場合、別れ路の水べを寒き、まで読んだ時点では、川辺を歩いていた作者が、二またに分かれた道のところでふと立ち止まると、川を渡り来る風がいっそう寒く感じられた、といった印象である。それが最後の、問ひ答へ、で、そこにいるのは二人とわかる。そうすると、寒き問ひ答へ、なのであり、別れ路も、これから二人は別れていくのかと思えてきて、寒き、に寂しい響きが生まれ、あれこれ物語を想像させる。寒き、の持つ季感と心情を無理なく含みつつ、読み手に投げかけられた一句と思う。清原枴童(かいどう)は、流転多き人生を余儀なくされ、特に晩年は孤独であったというが、〈死神の目をのがれつつ日日裸〉〈着ぶくれて恥多き世に生きむとす〉など、句はどこかほのぼのしている。句集のあとがきの、「枴童居を訪ふ」という前書のついた田中春江の句〈寒灯にちよこなんとして居られけり〉に、その人となりを思うのだった。「清原枴童全句集」(1980)所収。(今井肖子)


January 0912009

 陸沈み寒の漣ただ一度

                           齋藤愼爾

には(くが)のルビあり。陸という表現からは、満潮によって一時的に隠れた大地というより、「蝶墜ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男」のような太古への思いや天変地異の未来予言を思うのが作者の意図のような気がする。人類の歴史が始まる何万年も前、あるいは人類などというものがとうの昔に死に絶えた頃、陸地が火山噴火か何かの鳴動でぐいと海中に沈み、そのあと細やかな波が一度来たきりという風景。埴谷雄高のエッセーの中に、人類が死に絶えたあとの映画館の映写機が風のせいでカラカラと回り出し、誰もいない客席に向かって画像が映し出されるという場面があった。時間というもの、生ということについて考えさせられるシーンである。しかし、僕は、いったんそういう無限の時への思いを解したあとで、もう一度、日常的な潮の干満の映像に戻りたい。どんなに遥かな思いも、目に見える日常の細部から発しているという順序を踏むことが、俳句の特性だと思うからである。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所収。(今井 聖)


December 16122009

 湯豆腐の小踊りするや夜の酌

                           玉村豊男

頃は忘年会の連続で、にぎやかな酒にも海山のご馳走にも食傷気味か? そんな夜には、家でそっとあっさりした湯豆腐でもゆっくりつつきたい――そんな御仁が多いかもしれない。湯豆腐は手間がかからなくて温まるうれしい鍋料理。豆腐が煮えてきて鍋の表面に浮いてくる寸前を掬って食べる、それがいちばんおいしいと言われる。「小踊りする」のだから、まさに掬って食べるタイミングを言っている。表面で踊り狂うようになってしまっては、もはやいけません。掲出句は食べるタイミングだけ言っているのではなく、湯豆腐を囲んでいる面々の話題も楽しくはずんでいる様子まで感じさせてくれる。「小踊り」で決まった句である。古くは「酌は髱(たぼ)」と言われたけれど、ご婦人に限らず誰の酌であるにせよ、この酒席が盛りあがっていることは、湯豆腐の「小踊り」からも推察される。酒席はつねにそうでありたいものである。万太郎の名句「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」にくらべて、親しみとユーモアがほのぼのと感じられる。湯豆腐の句は数あるようだが、意外とそうでもないようだ。三橋敏雄に「脆き湯豆腐人工衛星など語るな」がある。なるほど。豊男には他に「天の寒地に堕ちて白き柱かな」がある。『平成大句会』(1994)所載。(八木忠栄)


November 29112010

 母すこやか寒の厨に味噌の樽

                           吉田汀史

違っているかもしれないが、まだ作者の母親が元気だった頃の回想句だろう。と言うのも、このところ私の母が歩行困難になり、ヘルパーの手を借りて生活している(現在は心不全で入院中)ので、そう思ったわけだ。ふだんは気がつきもしないのだが、専業主婦である母親の健康のバロメーターは、句のように厨(台所)の状態に表れることにいまさらのように気がついたからである。母が使わなくなった台所の様子は、食器や調味料の類いに至るまでの置き場所一つにしても、どことなく違って見える。同じような配置にはなっているが、やはり母とは微妙に物の向きが異なっていたりするので、すぐに他人の手の働いた跡が感じ取れてしまう。作者はおそらくそんな体験を経た後に、味噌の樽一つの置き場所とそのたたずまいの変化の無さが、実は母親の元気な証拠であったことを発見しているのだ。寒中の味噌の樽は、見た目には当然寒々しい。が、この句のそれは、ちっとも寒々しくもないし冷え冷えともしていない。「母すこやか」の魔法が効いているのだ。『季語別 吉田汀史句集』(2010)所載。(清水哲男)


November 30112012

 寒雀瓦斯の火ひとつひとつ點きぬ

                           能村登四郎

四郎31歳の時の句。大学を卒業後昭和14年28歳で「馬酔木」に投句。それから三年後の作品で「寒雷」にも投句していたことがわかる。「寒雷集」二句欄、もう一句は「卒業期もつとも遠き雲の朱」。両方とも若き教師としての生活がうかがわれる作品である。同じ二句欄に森澄雄の名前もある。澄雄の方は「寒天の松暮れてより夕焼くる」「かんがふる頬杖の手のかぢかみて」。ふたりともすでに生涯の傾向の萌芽が明らか。太平洋戦争開戦から三ヶ月。緒戦の勝った勝ったの熱狂の中でこのような素朴な生活感に眼を遣った句が詠まれていたことに瞠目する。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)


January 2912016

 五位鷺と寒雨の水面見てをりぬ

                           東藤涼子

醐天皇が神泉苑の御遊のとき五位の位を授けたという謂れで「五位鷺」。日本では本州以南で繁殖する留鳥である。分類としてはコウノトリの仲間のサギ科。全長六十センチメートル内外。頭と背は緑黒色,腹面は汚白色,翼は灰色。繁殖期には後頭から二本の長い白色の飾り羽がたれるのが特徴。夜行性で,夕方,水辺で首を縮めて獲物を待ち構える。狙う獲物は魚やカエルなどだが折しもの冷たい雨に思う様には獲物にありつけない。ただ悪戯に流れる時の中で五位鷺も作者もひたすらに水面を眺めて佇むのみである。野生は斯くに厳しい。<霙降り湖の船遅れけり><丸帯を卓に敷きたり節料理><待春の岸辺よ鳥類図鑑欲し>。俳誌「はるもにあ」(2015年3月号)所載。(藤嶋 務)




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