January 2311999

 茶碗酒どてらの膝にこぼれけり

                           巌谷小波

てら(褞袍)を関西では丹前(たんぜん)と言うが、よく旅館などに備えてある冬場のくつろぎ着である。いかにも「どてーっ」としているから「どてら」。……と、これは冗談だが、巌谷小波(いわや・さざなみ)の活躍した明治時代から戦後しばらくにかけては、冬季、たいていの男が寝巻の上などに家庭で着ていた防寒着だ。そんな褞袍の上に、作者はくつろいで一杯やっていた茶碗酒をこぼしてしまった。句の眼目は「こぼれけり」にある。迂闊(うかつ)にも「こぼしけり」というのではなくて、「こぼれけり」という自堕落を許容しているような表現に、作者の悲哀感がにじみでている。小波は、有名な小説家にして児童文学者。ただし、有名ではあったけれど、明治の文学者の社会的地位はよほど低かった。戦後しばらくまでの漫画家のそれを想起していただければ、だいたい同じ感じだろう。今でこそ子供が小説家や漫画家を目指すというだけで周囲も歓迎するが、明治より昭和の半ばまでは、とんでもないことだと指弾されたものだ。詩人についてはもっと厳しかったし、今でも厳しい(苦笑)。だから作者は「どうせ俺なんか」と「こぼれた」酒を拭おうともせずに、すねて眺めているのである。『ささら波』所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます