January 2111999

 声にせば覚えてをりぬ手鞠唄

                           大橋淑子

葉の運びが窮屈で、そこがとても惜しまれる句であるが、人の記憶のありかたについて貴重なことを言っている。作者の弁。「友達と童謡を歌っていた時のこと。てまりが殿様のおかごの屋根に揺られ紀州のみかんになった手鞠唄、全部覚えていたのです。子ども時代の歌、なつかしいです」。遠い子供の日々に、毬つき遊びをしながら覚えた歌だ。童謡『まりととのさま』は結構長いので、まさか全部を覚えているはずもないだろうと、とりあえず友達と声に出して歌ってみたら、あら不思議、二人ともすらりと全部歌えてしまったというのである。びっくりだ。嬉しかった。人の記憶にはあやふやなものが多いけれど、このように身体の動きと一緒に記憶したことだけは、なかなか抜けないようだ。歌だけを覚えているのではなくて、身振り手振りすべてが記憶のなかで連鎖しているからだ。つまり、記憶を呼び起こすキーがたくさんあるわけだ。だから、声に出すことがきっかけとなって、苦もなく歌えたのである。手鞠のように全身を使わなくとも、たとえば教室で音読させられた詩などが、ときに意味もなく口をついて出てきたりするのも、同種の記憶構造に仕込まれた引き金によるものだろう。俳誌「未来図」(1999年1月号)所載。(清水哲男)

[上記の解釈について京都大学の田中茂樹氏(認知神経心理学)より以下のご教示をいただきました] 記憶には「宣言的記憶」と「非宣言的記憶」という大きくわけて2種類のものがある、と言われております。宣言的記憶とは、覚えている俳句であるとか、昨日体験した出来事であるとか、簡単に言えば「口で説明できる記憶」です。非宣言的記憶とは、車の運転やスポーツなど、「口では説明できなくても動作で手順として覚えている事柄」であります。手続き記憶とよばれる記憶もこれに属します。歌や道順などは手続き記憶です。一時に全部は思い浮かべられないが動作の連続として再生はできます。なお脳にとっては言葉も動作もカテゴリーとしては同じ「運動」です。これらの記憶は蓄えられている場所も取り出し方も違います。 宣言的な記憶は海馬と呼ばれる部位が中心になって蓄えられており、本人が積極的に検索して取り出してきます。一方、手続き記憶などは様々な大脳皮質や小脳に分散して蓄えられており、ひとつの動作や想起から芋蔓式に取り出されてきます。学習も取り出しもたいていの場合は自動的です。海馬が損傷された患者さんでも歌は歌えることが多いのはこのためです。この俳句に即して言えば、とても思い出せないだろう、と作者が考えたのは宣言的記憶として頭の中に言語的に再生しようとしてもできないだろうという直感でそれは正しいといえます。実際に歌ってみた場合は、動作の連関として蓄えられていた手続き記憶=歌詞が出てきたものと思われます。 ...このように身体の動きと一緒に記憶したことだけは、なかなか抜けないようだ....と書いておられますが、言語そのものも運動=身体の動きです。私たちがMRIという装置研究した結果では発語しなくても字を見るだけで、大脳の運動言語中枢(言葉を話す中枢)は活動します。また道具の絵を見るだけで、それを使うのに関係する筋肉に指令を出す部分は活動します。むしろそのような仮想的な、脳の中での運動そのものが、物体を認知する、ということそのものであろう、とごく最近の大脳研究では考えられ始めています。まとまりが悪くなりましたが、体を使ったから記憶できた、というのは一部正しい意見だと思います。が、より正確には、歌詞は手続き記憶である。手続き記憶は(運転でカーブするとき のように)口で簡単には説明できない。しかしやってみると(歌の場合は歌ってみると)簡単である。運動の連続として体験などの記憶とは別の場所に蓄えられているからである。ただ自分自身でも手続き記憶の全貌を意識レベルで正確に捉えることは不 可能である(あいまいには可能である)。よって、この句の作者は、全部歌えないか なー、と考えたが歌ってみるとできた、さらに自分で驚いた、のであろう。というかんじでしょうか。




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