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December 14121998

 又例の寄せ鍋にてもいたすべし

                           高浜虚子

夜、客がある。「何にしましょうかね」と家人に相談されて、寒い折りでもあるから「又例の寄せ鍋」にしようかと答えた文句を、そのまま句にしてしまっている。こんなものが「俳句ですか」「文学なりや」と、正面から生真面目に問われても困るが、ま、虚子句の魅力の一つは、こうした天衣無縫な詠みぶりにあることだけは確かだ。このあたり、子規の句境とも共通している。ただし、虚子という大きな名前によりかかって、はじめて「俳句」と認知されるところがないとは言えないけれど……。でも、この句は「寄せ鍋」の単純な楽しさを予感させる意味では、なかなかに優れている。楽しさの正体は、たとえば「沸々と寄せ鍋のもの動き合ふ」(浅井意外)という「何でもあり」の鍋物そのものに見えている。そして「例の寄せ鍋」を喜んで食べてくれるはずの、「何でもあり」の気のおけない客を待ちかねる雰囲気も、句から十分に読み取れる。寄せ鍋は昔「たのしみ鍋」とも言ったそうだ。材料によって贅沢にも質素にもできるのが妙だが、いずれにせよ鍋物の美味い不味いは、おおむね誰とつつくかで決定される。句が暗示している客は、間違いなく歓迎されている。(清水哲男)


December 07121999

 鴨鍋のさめて男のつまらなき

                           山尾玉藻

理の席で、ご馳走になっているのだろう。鍋物は、座をやわらげる。ぐつぐつと煮えている間は、さして親しくない者同士でも、とりあえずは場がもつのである。だが、やがて火が落とされ、だんだん鍋の物がさめてくるにつれて、作者のように気分がしらけてくるということも起きる。はじめからつまらない男とは承知だが、やはりつまらないという事態に立ち至り、そこで女は席を立つ機会をうかがう……。高級な鍋料理だけに、この場のみじめさはことさらに大きく感じられる。もとより、この逆のケースもありうるわけで、句の「男」を「女」と入れ替えてもよいわけだ。だが、入れ替えてみると、意味は通るのだけれど、句が汚くなる。なんとなく、いやな感じになる。もっと言えば、下品に堕ちてしまう。なぜだろうか。理由は、読者諸兄姉がお考えの通りだ。鍋物の季節到来。鴨鍋なんぞはどうでもいいから、そこらへんの安物の寄鍋を、親しい者同士でつつくのがいちばん美味しい。店の建て付けがガタビシしていて、隙間風がはいってくるとなれば、もう言うことなし。このやせ我慢も、鍋の大事なかくし味。「寄鍋や酒は二級をよしとする」(吉井莫生)。(清水哲男)


November 19112000

 断られたりお一人の鍋物は

                           岩下四十雀

んな経験はありませんか。私には、あります。独身のころ、にわかに鍋物が食べたくなって、小奇麗な店に入って注文したら、あっさり断られました。鍋物は一人でもテーブルを占拠するし時間もかかるので、経済効率、回転率からすれば「お一人」は最悪の客でしょう。だから「断られ」たわけですが、チョー頭に来ましたね。店内は込みあっているわけでもなく、むしろガラガラ状態。この野郎と思って、じゃあ「二人前だ」と言っても「困ります」と言うばかり……。「二度と来るか」と寒空の下に飛び出して、しかし鍋はあきらめきれず、そこらへんの居酒屋チェーンのカウンター席で「お一人」用の不味い鍋をつついた。あの古びて凸凹になったアルミ鍋を、インスタント焜炉に乗せて食べる侘びしさといったら、なかった。「二度と来るか」の店は、その後二年ほどして潰れたらしく、跡形もなくなったときには「ざまー見ろ」と思ったことでありました。まことに、食い物の恨みはおそろしい(笑)。掲句の作者は、こんなふうに愚痴を漏らしてはいない。漏らしていないだけ、余計にすごすごと引き下がる感じの哀れさと、しかし内心の「二度と来るか」の腹立ちとが伝わってくる。それに作者は独身(私の勝手な推定ですが)とはいっても、若者ではないだろう。さらにいっそう、切ないではないか。私の忘れていた屈辱を、鮮明に思い出さされた一句なので書いておきます。最近はこうした心理的トラブルを避けるために、やたらと空席に「予約席」の札を立てている店がある。浅知恵である。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


November 30112009

 寄鍋にうるさき女奉行かな

                           湯浅苔巌

に「鍋奉行」と言う。鍋に具を入れる順番から煮え加減や食べ方にいたるまで、まことに細かく指示を出しつづけて「うるさい」。私などは無精だから「どうだっていいじゃん」と大人しくしているが、こういう句を詠む人もまた、鍋にはかなりの自信があるのだろう。しかし上には上がいるというのか、相手が女性ゆえに遠慮しているのか、彼女の指図にいちいちかちんと来ているのだが、何も言えないでいる。流儀が根本的に違うのだ。だからただただ腹立たしく、うるさいのである。と言って、べつに彼女を憎むほどでもないのであって、そのうちに諦めが肝心と悟ってゆく。ちょっとした宴会のちょっとした出来事。俳句でなければ、人はこんなことは書けないし書かない。まこと庶民の文芸である。でも逆に口うるさい鍋奉行がいてくれないと、すぐに鍋の中はぐちゃぐちゃになるし、荒涼としてくる。うるさくても、助かるのである。それこそ逆に、こんな句もある。「寄鍋を仕切るをとこのゐるもよし」(近藤庸美)。こちらは、女性ならではのありがたさを感じている。料理といえば女。それが「をとこ奉行」のおかげで、何もしなくてもよいからだ。今日で十一月もお終い。本格的な鍋料理の季節に入ってゆくが、腕を撫している奉行たちも大勢いることだろう。山田弘子編『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


November 11112010

 前山を見る寄鍋のうれしさで

                           栗林千津

本気象協会によると「鍋指数」というものがあり、空気が乾き寒くなるほど鍋指数は上がるという。これから鍋のお世話になる夜が増えるだろう。この頃はキムチ鍋からトマト鍋、豆乳鍋など様々なスープがスーパーの棚に並んでいる。寄鍋は昔ながらの定番メニューだけど、鍋を前にしたうれしさが、どうして山を見る心の弾みにつながるのだろう。鍋は覗き込むものだから、掲句の場合高い場所から山々を見下ろしているのかもしれない。山は一つではなくいくつか峰が連なっていて、山あり谷ありぎゅっと押し合いながら眼前に広がる様子が寄鍋らしくていいかもしれない。ただ単に「前山」という山を指しているのかもしれないが、山を見る嬉しさが。寄鍋を囲む楽しさや健康な食欲にすっと結びつくところがこの句の面白さだと思う。『栗林千津句集』(1992)所収。(三宅やよい)


December 16122013

 寄鍋の席ひとつ欠くままにかな

                           福山悦子

年会シーズンもたけなわだ。句は、そんな会合での一コマだろう。定刻をかなり過ぎても来ない人を待っているわけにもいかず、先に始めてしまったのだが、待ち人はいつまでたっても現れない。「どうしたんだろう」と気にしながらも、鍋の中身はどんどんたいらげられてゆく。格別に珍しい情景ではなく、類句も多い。が、私くらいの年齢になると、こういう句はひどく身にしみる。いつまでも来ない人に、若いころだったら「先にみんな喰っちゃうよ、知らないよ」くらいですむところを、最近では「何かあったんじゃないか。急病かもしれない」などとその人のいない席を気にしながら、心配しつづけることになる。若い人ならば当人に携帯で連絡を取るところだが、我らの世代にはそんな洒落たツールを持ち合わせている奴は少ない。みんなで「どうしたのか、死んじゃったかも」などと埒もないことを言いながら、結局は時間が来ておひらきとなる。その間のなんとなくもやもやとした割り切れない気持ちを、思い出させる句だ。トシは取りたくないものです。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)




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