December 02121998

 窓の雪女体にて湯をあふれしむ

                           桂 信子

者三十代の句。女盛りの肉体が、浴槽の湯をざあっと溢れさせている。外は雪だ。この暖寒の対比からいやでも見えてくるのは、作者の自己の肉体への執着ぶりだろう。男ならば「ああ、ゴクラク極楽……」とでも流してしまう入浴の気分を、女は身体全体でいわば本能的に流すまいと踏み止まる。男は身体を風流に流せるが、女は決して流せないと言い換えてもよい。このようなときに、女は存在するが、男は存在しないと言っても、言い過ぎではないだろう。たぶん女は、片時も自分に肉体があることを忘れては生きられないのである。かつて清岡卓行は「きみに肉体があるとはふしぎだ」というフレーズを書いたが、これなどは男の身体感を代表する詩句なのであって、この詩の美しさは女には届かないだろう。「ふしぎ」と言われるほうが不思議だと思うはずだからだ。女の肉体への執心は、自己愛と言うのとも、ちょっと違うような気がする。はじめに肉体ありき。そういう前提から、世の中との交流も自己との対話も出発するのではあるまいか。「女盛り」と書いたが、女にはおそらく自分の肉体の盛りがわかるのであり、女性の読者に伝えておきたいが、男はそれこそ不思議なことに、そういうことは皆目わからずに生きてしまうのである。『女身』(1955)所収。(清水哲男)




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