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October 30101998

 たんたんの咳を出したる夜寒かな

                           芥川龍之介

書に「越後より来れる嫂、当歳の児を『たんたん』と云ふ」とある。「たんたん」は、当歳(数え年一歳)というのだから、まだ生まれて間もない赤ん坊の愛称だ。その赤ん坊が、夜中に咳をした。風邪をひかしてしまったのではないかと、ひとり机に向かっていた父親は「ひやり」としたのである。晩秋。龍之介の手元には、おそらくはもう火鉢があっただろう。同じ内容の句に「咳一つ赤子のしたる夜寒かな」があって、こちらの前書には「妻子はつとに眠り、われひとり机に向ひつつ」とある。どちらの句も、新米の父親像が飾り気なく書かれていて好感が持てる。いずれの句が優れているかは判定しがたいところだが、「たんたん」のほうに俳諧的な面白みは出ているように思う。実際、新米の父親というものは仕様がない。赤ん坊の咳一つにも、こんなふうにうろたえてしまい、おろおろするばかりなのである。この句を読むと、我が身のそんな日々のことを懐しく思い出してしまう。龍之介もまた、しばらくの間は原稿を書くどころじゃない気分だったろう。『澄江堂句集』(1927)所収。(清水哲男)


November 02111998

 夜寒さの買物に行く近所かな

                           内田百鬼園

和九年(1934)の作。句作年代を知らないと、味わいが薄くなってしまう。煙草だろうか、薬だろうか。いずれにしても、ちょっとした買い物があって近所の店に出かけていく。もちろん、普段着のままである。句作年代が重要というのは、この普段着が「和服」だったことだ。かなり洋服が普及していたとはいっても、家の中でも洋服を着ている人はまだ少なかった。戦前の男も女も、くつろぐときは和服である。和服だから、夜道に出ると肩や胸、袖口のあたりにうそ寒さを感じる。これで素足に下駄だとすれば、なおさらのこと。ほんの「近所」までなのだけれど、季節の確実な移り行きが実感されるのである。もちろんコンビニなどなかった時代だから、店もはやく閉まってしまう。自然と急ぎ足になるので、いっそう夜風も身にしみるというわけだ。なんということもない句であるが、「買物」や「近所」という日常語が新鮮にひびいてくる。昭和初期の都会生活の機微が、さりげない詠みぶりのなかにも、よく認められる。『百鬼園俳句帖』(1934)所収。(清水哲男)


September 2492001

 臼ニなる榎倒れて夜寒哉

                           中村掬斗

者は一茶門、信州の人。それでなくとも、信州への寒気の訪れは早い。ましてや今日は、夏の間茂り木陰をつくっていた「榎(えのき)」(エノキに「夏の木」という日本字をあてるのは、このことから)が伐り倒され、夜寒もひとしお身にしみる。「榎」は高さ20メートルほどにも及ぶ大木だから、伐り倒された後の光景はさぞや寒々しかったにちがいない。私が気に入ったのは「臼(うす)ニなる」の「なる」。「榎」の材質は堅いので、昔から建材や家具に用いられてきた。が、消費者としての現代人はもはや結果としての建材や家具を目にするだけで、鞠斗の時代の人々のように、目の前の大木が結果としての「臼」になる過程に携わったり見たりすることはない。伐り倒された木の太い部分は「臼」になり、枝の部分は薪炭になる。と、当時の人々は倒された木から、いや木が立っているうちから、ごく自然に過程と結果をイメージできたのだ。その「ごく自然」な心が、臼に「なる」という言い方に表れており、決して臼に「する」ではないのである。木が自然に生長してきたように、今度は自然に臼に「なる」のだと言ってもよい。このことを逆に言えば、当時の読者にとっての掲句の「なる」は、あまりにも当たり前すぎて面白くもなんともなかっただろう。むろん作者の眼目も「なる」にはないので、句意は動かない。『一茶十哲句集』(1942)所収。(清水哲男)


November 08112006

 据ゑ風呂に犀星のゐる夜寒かな

                           芥川龍之介

書で「すえふろ」は「桶の下部に竈を据え付けた風呂」と説明されている。昔、家庭の風呂はたいていそういう構造だった。子供の頃、わが家では「せえふろ」と呼んでいた。香り高い檜桶の「せえふろ」が懐かしい。犀星はもちろん室生犀星。龍之介よりも3歳年上。龍之介には俳人顔負けの秀句がじつに多いが、私はこの句がいちばん好きだ。俳句も多い犀星は、芥川氏を知って「発句道に打込むことの真実を感じた」と自著『魚眠洞発句集』に書いている。ゴツゴツと骨張った表情の犀星が、龍之介の家に遊びに来て風呂に浸かっているのか、自宅の風呂に浸かっている犀星を想像し、深夜の寒さをひしひしと実感しているのか。あるいは、旅先の宿で一緒に浸かっているのか(そんな二次的考察は研究者にまかせておこう)。風呂桶と犀星という取り合わせで、夜の寒さと静けさとがいっそう色濃く感じられる。熱い湯に犀星は瞑目しながら身を沈め、龍之介は細々と尖ったまま瞑想しているのだろうか。男同士の関係がベタつかず、さっぱりとして気持ちがいい。冴えわたっていながら、どこかしら滑稽味がにじみ出ている点も見逃せない。掲句は龍之介が自殺する三年前、大正十三年の作。犀星は龍之介の自殺直後の八月に、追悼句を「新竹のそよぎも聴きてねむりしか」と詠んだ。『芥川龍之介句集 我鬼全句』(1976)には1,014句がおさめられている。ふらんす堂『芥川龍之介句集』(1993)所収。(八木忠栄)


October 30102011

 次の間の灯で飯を喰ふ夜寒かな

                           小林一茶

うして隣の部屋の灯で食べているのかは分りませんが、たしかにそんな経験、一度か二度はあったなと思います。そう思ってしまったらもう、句の魅力に捕らわれているわけです。書かれていることは、ただありのままの様子を写しただけです。それなのに、読者の想像力は妙に膨らんで行きます。不思議です。この句に感心するのは、描き方の巧さではなく、これを描けば句になるという感覚です。隣の部屋の明かりで夕食を食べざるをえないのは、肩身の狭い状況にあるからなのでしょうか。ひとりで向かう小さな御膳の前で、悲しみそのもののような食事をしているのかもしれません。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


October 22102014

 河添の夜寒かなしき洲崎かな

                           芝木好子

崎は現在の江東区東陽町にあたる。昭和33年3月31日まで、吉原とならんで赤線の灯がともっていた。それを描いた川島雄三の傑作映画「洲崎パラダイス赤信号」(1956)が忘れられない。新珠三千代主演で、なぜか河津清三郎と轟夕起子も忘れがたい。その原作こそ芝木好子の小説「洲崎パラダイス」だった。現在の東陽町にはマンション群が建ちならんで、あのパラダイスの面影はなく、「夜寒」もすっかり様変わりした。この「河」は隅田川だと思う。(小名木川ではあるまい。)浅草で育った好子には、もともと一帯の土地勘があり、「洲崎パラダイス」を書くにあたって取材もしただろうから、赤線の街の夜寒は敏感に感じていただろう。河添の街の夜寒は格別かなしいだろうし、夜ごとの灯りも女も、やってくる男たちもかなしい。こういうかなしい街がなくなりつつあるのは結構だが、「女性が輝く職場」を標榜して、内閣の認証式で女性閣僚を周囲に侍らせてにっこりしていた総理大臣に、あきれて二の句がつけなかったのは、私だけだろうか。久保田万太郎に「吉原の菊のうはさも夜寒かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 01112015

 うぐいす張り刀引き寄す夜寒かな

                           西川悦見

円寺北口2分の所に、居酒屋「赤ちゃん」があります。現在の店主、赤川徹氏の尊父が歌人だった縁で、周辺に住む文人墨客が集った酒場で、店名は、井伏鱒二の命名です。映画・演劇・文学を好む客が多く、その流れで最近は、店で定期的に句会を開いていて、誰もが自由気ままに参加しています。また、店主が将棋好きとあって、腕自慢の酔客とカウンター越しに指すこともしばしばで、時折プロ棋士も立ち寄ります。先夜、久しぶりに将棋を指しに行ったところ、「第十八回赤ちゃん句会」の作品一覧三十余句を見せられて、「これは訳がわかんない」と断言したのが掲句です。他に「秘めごとの牛車を止める良夜かな」があって、これは蕪村の平安調の作りみたいだね、なんてしたり顔で喋っていたところ、掲句の作者が店に現れ私の横に座り、焼酎割りを呑み始めました。「西川さん、秘めごとの句は蕪村調で面白いけれど、うぐいす張りはチンプンカンプンだよ」。すると、「うぐいす張り」は、廊下を歩くと音が出る仕掛けのことで、武家屋敷の忍者除けであることを教えてくれました。そういえばそうだった、なるほど!これで俄然、寒夜の緊迫感が伝わってきました。「張る・引く・寄す」は、緊張つながりの縁語と言ってもよいのでしょう。西川氏は、蕪村の「宿かせと刀投げ出す吹雪哉」の歌舞伎的な作りが好きで、換骨奪胎の句を作ってみたかったといいます。蕪村の句は大音声の荒事で、西川氏の句は「引き寄す」動作が機敏で静かな侍のリアリズムです。これは、蕪村もほめてくれるでしょう。他に、「原発も紅葉もつぶしゴジラ征く」。この夜、西川氏の俳号が不損(ふそん)と決まりました。(小笠原高志)


March 0232016

 をさな児の泪のあとや春日暮る

                           那珂太郎

児が親に叱られたか、友だちと喧嘩したかして泣いたあと、しばしして泪が乾いてきた時の「泪のあと」であろう。よくそういう場に出くわしたことがある。当人はまだ辛いだろうけれど、他者から見れば、それは微笑ましくも可愛いものである。ようやく長くなってきた春の一日がもう暮れようとしているのに、「泪のあと」が夕日にテカテカ光っているのかもしれない。そんな光景。太郎は晩年十年余り、眞鍋呉夫や三好豊一郎、司修らとさかんに俳句の席にのぞんでいた。呉夫らとよく歌仙を巻いた沼津の大中寺には、「万緑の緑とりどりに緑なる」の句碑が建っている。太郎らしく韻を連ねている句である。掲出句は1941年(19歳。東京帝大入学)の作。歿後に刊行された『那珂太郎はかた随筆集』(2015)に、「句抄」として1941年に詠まれた56句が収められている。他に「猫の目の硝子にうつる夜寒かな」がある。(八木忠栄)




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