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October 08101998

 黍噛んで芸は荒れゆく旅廻

                           平畑静塔

礼ながら、この句は出来過ぎだろう。食料難の時代の旅廻(たびまわり)の芝居の一座。今日も米が手に入らず、黍(きび)だけの貧しい食事だ。もしゃもしゃと黍を噛む生活では、当然、培ってきた芸も荒れていくだろう。作者は、そんな一座に同情しながらも、自暴自棄になっているような座員たちの姿には腹も立てているのではあるまいか。私が出来過ぎというのは、句のなかであまりにも作者が常識と常識的な判断根拠をつなげ過ぎているからだ。それこそ、まるで三文芝居のように、である。しかし、私はこの出来過ぎを嫌いではない。敗戦後の一時期、田舎にも(いや、田舎だったからこそ)旅の一座がめぐってきた。文字通りの小屋掛けの芝居を打ちにきた。それもただ、ひたすらに食料を求めるだけの目的で……と、後で知った。私は、そうした劇団のちっぽけな一観客。刈り取りの終わった田圃の急拵えの小屋の地面に座っていると、ズボンの尻から水分がじわじわと腰まで上がってくるのが常だった。舞台の芸が巧いのか、荒れているのかどうかもわからずに、私はそこで、主要なチャンバラ芝居のストーリーはみんな覚えた。この句を思い出すたびに、あのとき大人でなかった幸せを思うのである。(清水哲男)


October 21102013

 貧しさの戦後の色よ紫蘇畑

                           鍵和田秞子

きごろ亡くなった漫画家のやなせたかしが、こんなことを書き残している。「内地に残っていた銃後の国民のほうがよほどつらい目を見ている。たとえ、戦火に逢わなかったとしても飢えに苦しんでいる」(「アンパンマンの遺書」)。掲句の作者は、敗戦当時十三歳。別の句に「黍畑戦中の飢え忘れ得ぬ」とあるように、戦後七十年近くを経ても、いまなお飢えの記憶は鮮明なのである。当時七歳でしかなかった私などでも、飢えの記憶はときおり恨み言のようによみがえってくる。この句のユニークさは、そんな飢えに代表される貧しさを、「色」で表現している点だろう。通りかかった一面の紫蘇畑を見て、ああこの色こそが「戦後の色」と言うにふさわしいと思えたのだった。紫蘇は赤紫蘇だ。焼け跡のいずこを眺めても、まず目に入ってくるのは瑞々しさを欠いた紫蘇の葉のような色だった。他にも目立つ「色」はなかったかと思い出してみたが、思い浮かばない。埃まみれの赤茶けた色。憎むべき、しかしどこにも憎しみをぶつけようのない乾いた死の色であった。「WEP俳句通信」(76号・2013年10月刊)所載。(清水哲男)




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