October 08101998

 黍噛んで芸は荒れゆく旅廻

                           平畑静塔

礼ながら、この句は出来過ぎだろう。食料難の時代の旅廻(たびまわり)の芝居の一座。今日も米が手に入らず、黍(きび)だけの貧しい食事だ。もしゃもしゃと黍を噛む生活では、当然、培ってきた芸も荒れていくだろう。作者は、そんな一座に同情しながらも、自暴自棄になっているような座員たちの姿には腹も立てているのではあるまいか。私が出来過ぎというのは、句のなかであまりにも作者が常識と常識的な判断根拠をつなげ過ぎているからだ。それこそ、まるで三文芝居のように、である。しかし、私はこの出来過ぎを嫌いではない。敗戦後の一時期、田舎にも(いや、田舎だったからこそ)旅の一座がめぐってきた。文字通りの小屋掛けの芝居を打ちにきた。それもただ、ひたすらに食料を求めるだけの目的で……と、後で知った。私は、そうした劇団のちっぽけな一観客。刈り取りの終わった田圃の急拵えの小屋の地面に座っていると、ズボンの尻から水分がじわじわと腰まで上がってくるのが常だった。舞台の芸が巧いのか、荒れているのかどうかもわからずに、私はそこで、主要なチャンバラ芝居のストーリーはみんな覚えた。この句を思い出すたびに、あのとき大人でなかった幸せを思うのである。(清水哲男)




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