October 04101998

 誰もゐない山の奥にて狂ふ秋

                           沼尻巳津子

節そのものを人間になぞらえる手法は、詩歌では珍しいことではない。春夏秋冬、いずれの季節にも人間と同じような姿や性格を与えることができる。また、その逆も可能だ。そんななかでこの句は、常識的な秋のイメージをこわしてみせており、こわすことによって、秋という季節を感覚的により深めようとしている。さわやかな秋。その秋が「誰もゐない山の奥」で静かに狂いはじめていると想像することは、頭脳明晰であるがゆえに狂気を内在させている感じの人間を想起させたりする。なべて明晰なるものは狂気を内包する。……とまでは言い切っていないのかもしれないが、不気味な印象が残る句だ。この「秋」を他の季節に置き換えて考えてみたが、やはり「秋」とするのがもっともコワい。逆にそれだけ私たちの「秋」の印象は単純にパターン化されており、表情に乏しいということになるのだろう。『華彌撒』(1983)所収。(清水哲男)




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