September 1591998

 敬老の日といふまこと淋しき日

                           中村春逸

者については、何も知らない。したがって、このときの作者が何歳なのかもわからない。ただ考えることは、この句がみずからの本音として素直に肯定できるのは、何年後くらいだろうかといったことどもである。かつては「敬老の日」ではなく「老人の日」といった。私は「老人の日」のほうが好きだ。「敬老」とは、いかにも押しつけがましい。それに「敬老」では、主体であるはずの老人が消されてしまう。若い人が老人を敬うべき日の意味となる。余計なお世話である。この句は、多分そこらあたりへのいきどおりも含んでいると読める。戦後の日本人が失った徳目は多いが、また失われてしかるべきそれもあったけれど、なかで目立つのは先達への尊敬の念である。残っているとしても、たとえば「おばあちゃんの知恵」などに矮小化されており、自分の得にならない部分は全てカットしてきた。あさましいかぎりなのだ。こんな世の中を誰が作ったのか。と言えば、それがまた、本日敬われるべき存在の老人たちが作ってきたことにも間違いはない。作者の意図とは別に、誰にとってもまことに淋しい祝日が「敬老の日」だ。平井照敏編『新歳時記』(1989)所載。(清水哲男)




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