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September 1091998

 もの置かぬ机上もつとも涼新た

                           井沢正江

窓浄机。そんな言葉を思い出した。爽やかな新涼の雰囲気を、何も置かれていない机という物ひとつで捉えている。ひるがえって、現在ただいまの我が机上はというと、目勘定でざっと百冊ほどの本や雑誌がウヅ高く積まれており、北向きの部屋だから涼しいには涼しいが、とても上品な句になる光景ではない。本を下ろせば、寝る場所がなくなる。昔から書斎は「北堂」といって、光線の変化が少ない北向きの部屋がよしとされてきた。そのあたりは「よし」なのだけれど、机が机として使えない状態は「よくなし」だ。句に戻れば、作者の机の上には常に何も置かれていないのではなくて、一念発起して部屋の整理整頓を試み、その際に机上の物をすべて下ろしたというわけだろう。つまり、部屋全体が爽やかに一新されたのである。話はまたぞろ脱線するが、編集者時代にお邪魔した方々の書斎で最も整理されていたのは、詩人の松永伍一さん宅だった。イラストレーターの真鍋博さんの仕事場も、見事にきれいだった。反対に大先輩には失礼ながら、いまの私の机上とほぼ同じ状態だったのは、作家の永井龍男さんの炬燵の上。なにしろお話をうかがっているうちに、ずるずると本やらゲラやらが当方の膝の上に滑り落ちてくるのであった。『路地の空』(1996)所収。(清水哲男)


September 1191998

 新涼の画を見る女画の女

                           福田蓼汀

アリの一句。会場の様子を画として見ている。画を見るのに少し疲れた作者は、長椅子にでも腰掛けているのだろう。会場は閑散としていると思われる。と、そこに妙齢の美女が現れた。どんな画の前でたたずむのかと好奇の目を光らせていると、彼女は女性が描かれている画の前で足を止めた。裸婦像かもしれない。そこで彼女の視線を追って、作者はもう一度その画を眺めやり、また件の女性に目を戻したというわけだ。したがってこの場合の新涼は、天然自然のそれというよりも、むしろ女が女の画をまっすぐに見つめている爽やかな雰囲気を表現している。最近はたまにしか展覧会に出かけないが、他人がどんな画に興味を示すのかは、かなり気になる。その他人が美女となれば、なおさらだ。わかっているのか、わかっていないのか。あるいは、お前なんかにわかってたまるかなどと、意地悪い目で会場の客を見ていたりする。観賞眼に自信があるわけではない。曲がりなりにも美術記者として社会に出た経験から、とくに他人の趣味嗜好が気になるだけである。若き日の職業柄からとはいえ、まことにもって因果なことである。(清水哲男)


September 2392000

 秋涼し蹠に感ず水の張り

                           櫛原希伊子

註に、水元公園にてとある。「蹠(あうら)」は足の裏。作者は、池の畔に立っている。天気晴朗なり。ようやく新涼(「秋涼し」は「新涼」のパラフレーズ)の気が四方に充ち、心身ともに快適だ。「水の表面張力が蹠を押しているような気がした。水の中の杭と水辺の私とは涼しさで繋がれる」(自註)。眼目は「感ず」だろう。このような生まな言葉は、ふつうは俳句の外に置いておく。いちいち「感ず」では、小学生の作文じゃあるまいし、うるさくてかなわない。しかし、そんなことは百も承知で、あえて「感ず」を持ち込んだところで、句に力と幅が出た。危険な戦法だが、これで句が強く生きることになった。なぜ、この戦法がとられたのか。試みに「感ず」ではなく「蹠を押して」とでも言い換えてみると、理由がはっきりする。読者の目は「押して」に集中し、それはそれで悪くはないが、句がひどく小さくなってしまう。せっかく作者が「秋涼し」と大きく晴朗に張った構図が、どこかに行ってしまうのだ。だから「感ず」と(「感じただけ」と)、故意に「水の表面張力が蹠を押しているような気」を強調しなかった。隠し味にとどめた。「水の表面張力が蹠を押しているような気」は、作者独自の感覚だ。「なるほどね」と、読者を唸らせる発見であり手柄である。この発見と手柄にすがりつかないことで、作者は「秋涼し」を大きく歌えた。私だと、多分こうはいかない。山っ気を出して、手柄にすがりついてしまう。必然的に、句は小さくなる。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


August 1182001

 新涼や吉永小百合ブルー・ジーン

                           中村哮夫

になって感じる涼しさが「新涼(しんりょう)」。単に「涼し」と言うと、夏の暑さのなかで涼気を感じる意味なので夏の季語である。作者は東宝撮影所、同演劇部を経た舞台演出家。したがって、掲句はテレビや映画を見ての句ではなく、実景を詠んだものだろう。作句年代からすると、つい数年前の吉永小百合だ。昔から涼しげなイメージの女優であり、しかもラフな「ブルー・ジーン」姿なのだから、なるほど「新涼」にはぴったりだと思った。他に思いつく女優の名前をいくつかランダムに当てはめてみたけれど、小百合以上にしっくりとくる人はいなかった。もっとも、これは昔のいわゆる「サユリスト」の贔屓(ひいき)目かもしれず、鑑賞の客観性にはさほど自信がない。でも、ま、いいか……。彼女を一躍スターにした映画は浦山桐郎監督の『キューポラのある街』(1962・日活)であり、貧乏にもめげず明るくしっかりした性格の少女役を演じていた。すっかりファンになってしまった私は、大学新聞の文化面に「吉永小百合の不可能性」なる批評文を書いたのだったが、このタイトル以外は何も覚えていない。「可能性」ではなく「不可能性」とやったところに、なまじな「サユリスト」とは違うんだぞという生意気さが感じられる。そんなことも思い出した。句に固有名詞を詠み込むのは、それこそ客観性に乏しくなる危険性を孕むので、なかなかに難しい。私にはしっくり来たが、他の読者にはどうであろうか。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)


September 0492003

 新涼や二人で川の石に乗り

                           寺田良治

語は「新涼」で秋。句の情景は、川遊びというほどのことではない。山峡などの川辺を歩いていて、ふっと川面からごつごつと露出している「石」に乗ってみただけのことだ。何が「二人」をしてそんな他愛無い行為に走らせたのかと言えば、むろん「新涼」である。夫婦か、恋人同士か、あるいは同性の二人連れだってかまわないのだが、とにかく二人ともどもに稚気溢れる行動に移りたくなるほど、気持ちの良い涼しさに恵まれたということだ。写真で言えば、記念写真ではなくスナップ写真。シャッター・チャンスが巧いので、なんでもないような情景ながら、構えた記念写真などよりもずっと新鮮な印象を与えつづけるだろう。こういう写真を撮れる人、いや、句を作れる人は、とても言語的な運動神経が良い人なのだと思う。上手なカメラマンがそうであるように、被写体の魅力を引き出すコツを心得ている。まずもって、被写体(相手)にある種の先入観を抱いて向き合うようなことはしない。また、相手の意識のうちで、その行為に意味があろうがなかろうが、そんなことにも関心を持たない。待っている瞬間は、ただ一点。すなわち、相手が我を忘れる一瞬だ。そして、この忘我の一瞬は、どんなに意識的な行為の過程にも訪れる。それがたとえ、気取りという極めて意識的な行為の最中にでも、気取りの意識が高揚してくると否応なく露出してくる状態である。そこを逃さずに、パッと切り取る。そして切り取るときには、こちらも忘我。ここが肝心。揚句は、まさにそのようにして切り取られた作品と読める。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


September 2992004

 広報の隅まで読んで涼新た

                           伊藤白潮

語は「涼新た(新涼)」で秋。「広報」は区や市など自治体の発行している広報誌のことだが、これを「(隅から)隅まで」読む人はなかなかいないだろう。購読紙に広告といっしょに挟まれて配達される地域が多いので、一瞥もされないままにビラと同じ運命をたどる「広報」も多いはずだ。それを作者は「隅まで」読んだというわけだが、特にその号に注目したというのではなく、おそらくは気まぐれで読みはじめ、ついつい最後までページをたどってしまったということのようだ。読んだのはたまたま手に取ったときの気分が良かったからであり、その気分の良さは猛暑が去った後の「涼」がもたらしたものである。つまり「新涼」の心地よさから読みはじめて、読み終えると、今度は何か普段では経験したことのない達成感が生まれて、そこでまたあらためて快適な「涼新た」の実感がわいてきたということである。「新涼」に誘われて行為した結果、なおのこと「涼新た」の感を深くした。そういう構成だと思う。だからこのときに「涼新た」と「新涼」は厳密には同義ではなく、「涼新た」には作者の読後という時間が投影されている。要するに既成の季語の概念に作者個人のアクションを加え重ねているわけで、なんでもないような句に見えるかもしれないが、作者が素知らぬ顔をして、実は季語と遊んでいるところに掲句の楽しさがあると読んだ。『ちろりに過ぐる』(2004)所収。(清水哲男)


October 02102007

 新涼や三回試着して買はず

                           田口茉於

々続いた凶暴な残暑にもどうやら終わりがきたようだ。先月からはやばやと秋の装いのニットやブーツを身につけていたショーウィンドーのマネキンも、ようやく落ち着いて眺めることができるようになった。しかしまだ更衣をしていないこの時期に、新しい洋服の購入はとても危険なのである。また同じようなものを買ってしまったという後悔や、手持ちのどの洋服とも合わないという失敗を毎年繰り返しているにも関わらず、ついつい真新しいファッションを手にしたくなるのが女心というものだ。手を出しかねていたレギンスから、世間は一転してカラータイツになっているようだけれど、これもきっと取り入れずに終わるだろう。それにしても掲句の作者はずいぶん用心深く、わたしが懲りずに度々犯す「衝動買い」という愚かな過ちを上手に回避しているようだ。今年は掲句を繰り返しながら街を歩くことにしようかと思う。〈携帯でつながつてゐる春夕べ〉〈私から届く荷物や金木犀〉『はじまりの音』(2006)所収。(土肥あき子)


August 2282008

 新涼や豆腐驚く唐辛子

                           前田普羅

句で擬人法はいけないと習う。いつしか自分も人にそう説いている。なぜいけないか。表現がそのものの在りようから離れて安易に喩えられてしまうからだ。「ような」や「ごとく」を用いた安易な直喩がいけないと教わるのと同じ理屈である。しかしよく考えてみると罪は「擬人法」や「直喩」にあるのではなくて「安易な」点にある。両者は安易になりがちなので避けた方がいいという技術のノウハウがいつしか禁忌に変わる。「良い句をつくる効率的で無難な条件」からはねられた用法が「悪しき」というレッテルを貼られるのである。豆腐が、添えられた唐辛子に驚いているという把握は実に新鮮で素朴な感動を呼ぶ。俳句の原初の感動が「驚き」にあるということを改めて思わせてくれる。こういう句は造りが素朴なので、類型を生みやすい。そうか、このデンで行けばいいのかなどと思って、パスタ驚く烏賊の墨などと作るとそれこそが安易で悪しき例証となる。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)


September 0392008

 新涼の水汲み上ぐるはねつるべ

                           岩佐東一郎

い横木の一端に重石をとりつけ、その重みでつるべをはねあげて水を汲みあげるのが撥釣瓶(はねつるべ)。そんなのどかな装置は、時代劇か民俗学の時間のかなたに置き去られてしまったようだ。私も釣瓶井戸は見ているが、撥釣瓶井戸の実物は幼い頃に見た記憶がかすかにあるていど。もはや「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」という千代女の句で、知ったふりをするしかない。秋になって改めて味わう涼しさは、ホッとして身がひきしまる思いがする。「新涼や/水汲み・・・」ではなく、「新涼の水汲み・・・」で「新涼の水」を汲みあげているととらえている。冷やかに澄みきった井戸水であろう。ただの井戸や川から汲むのではなく、撥釣瓶で汲みあげるという設定によって空間が大きくなり、ゆったりとした動きも加わった。のどかにしてすがすがしい動きに加え、かろやかな音さえ聞こえてくるようである。それにつれて人の動きも同時に見えてくる。水を汲みあげるという作業のなかに、人々の生活の基本が組みこまれていた――そんな時代があったことを、この句は映し出している。新涼と水をとり合わせた句は少なくない。西東三鬼には「新涼の咽喉透き通り水下る」の句がある。東一郎は昭和十年代、北園克衛、安藤一郎、岡崎清一郎、他の詩人たちとともに俳句誌「風流陣」の同人だった。ほかに「月の梅うすうすと富士泛(うか)べたり」の句があり、句集に『昼花火』がある。『昼花火』(1940)所収。(八木忠栄)


September 0792010

 新涼や持てば生まるる筆の影

                           鷹羽狩行

象庁では2日、今年の夏を異常気象と発表した。異常気象とは「過去30年の観測に比して著しい偏りを示した天候」と定義されているという。尋常でないと公認された暑さではあるが、それでも夕方はめっきり早く訪れるようになり、朝夕には季節が移る用意ができたらしい風が通うようになった。先送りにしていたあれこれが気になりだすことこそ、ようやく人心地がついたということだろう。酷暑のなかでも日常生活はあるものの、要返信の手紙類は「とりあえず落ち着いたら…」の箱に仕分けられ、そろそろかなりの嵩になっている。掲句では、手紙の文面や、送る相手を思う前に、ふと筆の作る影に眼がとまる。真っ白な紙の上に伸びた影が、より目鼻のしっかりした秋を連れてくるように思える。書かねばならないという差し迫る気持ちの前で、ふと秋を察知したささやかな感動をかみしめている。やがて手元のやわらかな振動に従い、筆の影は静かに手紙の上を付いてまわることだろう。『十六夜』(2010)所収。(土肥あき子)


August 2782011

 古稀の杖つけば新涼集まれる

                           竹下陶子

週末、一雨に新涼を実感した。週が明けてからは再び残暑の毎日だが、法師蝉が夏休みの終わりを告げている。掲出句、作者にとっては、新涼の風を感じるといった、ふとした感覚ではなく、新涼がまさに集まってきたのだ。この句の二年前の作に〈   新涼やギプス軽き日重たき日〉とあり、リハビリを経てこの年は暑い間は大事をとって家居されていたのだろう。杖をついての外出も初めてか、そこにはためらいもあったに違いない。人生七十古来稀、まあ致し方なしというところか、と外に一歩を踏み出した時の作者の静かな中にも深い感動が、新涼の風と共に伝わってくる。『竹下陶子句集』(2011)所収。(今井肖子)


September 2092011

 いつもあなたに褒められたかつた初涼

                           阿部知代

山本紫黄の前書がある。「面」を主宰していた山本紫黄は〈新涼の水の重たき紙コップ〉〈日の丸は余白の旗や春の雪〉など、諧謔と抒情の匙加減の絶妙な作家であった。俳縁とは不思議な縁である。ともすれば、その人の年齢も生業も知らないまま、何十年と付き合いが続く。亡くなって初めて、ご家族の顔を知ることも少なくない。俳人の葬儀では、故人が句会で発していた名乗りを真似た声が、どこからともなく上がるという。おそらく家族や親戚も知らない、座を共有した者たちだけが知る故人の声である。それはまるで鳴き交わしあった群れが、去っていく仲間に送る最後の挨拶のようだと、今も深く印象に残っている。俳句は、おおかたが大人になってから出会うこともあり、褒められるという機会がなくなった頃、句会で「この句が好きだ」と臆面もなく他人から言われることの喜びを得られる場である。そして、誰にも振り向かれなくても心から慕う人だけに取られたときの充足はこのうえないものだ。師を失った弟子の慟哭は限りない。生前は言えなかったが、もう会えない聞いてもらえないからこそ吐露できる言葉がある。そして、これほど切ない恋句はないと気づかされる。「かいぶつ句集」(2011年9月・第60号特別記念号)所載。(土肥あき子)


October 30102012

 野分来る櫓を漕ぐ音で竹撓る

                           嘴 朋子

六竹八塀十郎という言葉がある。樹は六月に、竹は八月を過ぎてから伐り、塀は十月に塗るのが望ましいという意味だ。それぞれに適した時期を先人はこうした語呂合わせで覚えていた。陰暦でいうので、竹はこれからが冬にかけてが伐りどきなのだ。郷里では茶畑も多いが、竹林も多かった。もっさりと葉を茂らせた竹が強風に煽られる姿は、婆娑羅髪を振り立てたようで恐ろしばかりだったが、葉擦れや空洞の幹が立てる音色はたしかに川の流れにも似て、竹の撓る音はぎいぎいと櫓を漕ぐがごとしであった。掲句のおかげで今まで乏しい想像力のなかで荒くれお化けだった景色が一変した。翡翠色の竹林の上を大きな舟がゆったりと渡っていくのだ。環境省が選んだ「残したい日本の音風景」には「奥入瀬の渓流」や「広瀬川の河鹿蛙」などとならび、「京の竹林」もエントリーしている。久しぶりに竹の音を聞いてみたくなった。〈弧を描く少女の側転涼新た〉〈短日のナース小さく風切つて〉『象の耳』(2012)所収。(土肥あき子)


September 1292013

 新涼や夕餉に外す腕時計

                           五十嵐秀彦

井隆の『静かな生活』に「腕時計せぬ日しばしば手首みる小人(こびと)がそこにゐた筈なんだ」という一首がある。腕時計は毎日仕事にゆく生活をしている人にはなくてはならない小道具。分割された時間に動く自分を縛るものでもある。岡井の短歌は手首で時を刻む腕時計そのものを勤勉な小人の働く場所と見立てのだろうが、「腕時計」をはずすときは自分の時間を取り戻すときでもある。掲句では、家族とともに囲む夕餉に腕時計をはずす、その行為自体に新涼の爽やかさを感じさせる。腕時計と言えばベルトも革製のものとメタルのものがあるが、少し重さを感じさせるメタルの質感がこの句の雰囲気にはあっているように思う。昼の暑さが去り、めっきり涼しくなった夕餉時、ひと仕事終えた解放感とともに、食卓に整えられた料理への食欲も増すようである。『無量』(2013)所収。(三宅やよい)


September 1192014

 涼新た卓布に木の匙木のナイフ

                           工藤 進

のテーブルクロスは真っ白に洗い上げた白のリネンでパリッとアイロンが当たっていそう。その上に揃えてある木の匙と木のナイフは手の温もりが感じられる。このテーブルに集う人から新たな物語が始まりそうだ。「涼し」はたまらない暑さにふっと感じる涼気だけれど、「新涼」は日常的に爽やかさな空気が感じられること。日差しはまだ強くとも、朝晩の涼気は秋のものだ。掲載句では物と物との質感の対比がくっきりしていて「涼新た」という爽やかな言葉を生かしている。ひんやりとした空気に、本格的な秋の訪れを感じる頃、こんな食卓で景色を眺めながらゆったりと食事をしてみたい。『ロザリオ祭』(2014)所収。(三宅やよい)


August 0882015

 新涼や白寿へ向かふよき寝息

                           船橋とし

則的で安らかな寝息をたててぐっすり眠っている方は、向かふ、ということなので御年九十八歳ということになる。その穏やかな眠りを傍らで見守っている作者の気持ちに寄り添うように、窓から運ばれてくる新涼の風は心地よくやさしい。この句を読んでふと父を看取ったときのことを思い出した。それは静かで規則的な寝息なのだが少しずつ間遠になりながら、確実に終わりに向かっていった。縁起でもない連想で申し訳ないけれどその記憶が、よりいっそうこの句の、よき寝息、の健やかさを実感させた。毎年のことではあるけれど、暦とはうらはらに猛暑続きの毎日、新涼、の心地よさを実感できる日が待たれる。『輪唱』(2014)所収。(今井肖子)




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