September 0291998

 風の無き時もコスモスなりしかな

                           粟津松彩子

味ではあるが、これぞプロの句。「ホトトギス」の伝統ここにありとばかりに、凛としている。コスモスは群生するので、かたまって絶えず風に揺れている印象が強いが、風がなくなればもちろん動きははたと止まる。その様子をスケッチしたにすぎないのだけれど、これを言わでもがなの中身と受け取ると、俳句的表現の大半の所以がわからなくなる。この句に、意味などはない。あるのは、自然をあるがままの姿で写生しようとている作者の姿勢だ。無私の眼が、どれほど徹底しきれるものかというそれである。近代的自我などというフウチャカと揺れる目つきを峻拒したところに、子規以来の写生の精神が生きている。かといって「俳句道」だとか「俳句禅」だとかとシャカリキになるのではなく、ここで作者の肩の力は完全に抜けているのであって、そこが他の文芸には真似のできない「味」を産み出している。最近は人事句が大流行で、この種の上質な写生句はなかなか見られない。が、俳句表現の必然とは何かと考えるときに、今でもこの方法は無視できない重さを持ってくる。まあ、そんな理屈はさておいて、一読「上手いもんだなあ」と言うしかない句である。「俳句文芸」(1997年12月号)所載。(清水哲男)




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