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August 2181998

 また微熱つくつく法師もう黙れ

                           川端茅舎

躯にして精悍。たった三センチほどの蝉のくせに、突然大声をはりあげるのだから、病気がちの人にとってはたまらないだろう。こ奴め、どんな姿をしているのかと、少年時代にひっとらえてまじまじと見つめた覚えがあるが、その意外な小ささと透明な羽根の美しさに驚いたものだった。「法師」の名は、鳴き声からきているという。が、蝉の仲間から言わせれば、法師は法師でも、むしろやんちゃ坊主の類に入れられるのではあるまいか。「法師」というだけで、夏目漱石のように「鳴き立ててつくつく法師死ぬる日ぞ」という無常感につなげて詠む人が、いまでも多い。しかし、この句の作者は「法師」もクソもあるものかと、大いに不機嫌である。どちらも感じたままを詠んでいるとして、胃弱の漱石がこの対比のなかでは、はからずも健康者の感覚を代表してしまっているところが皮肉である。つまり、人生の無常などにしみじみと思いをいたすのは、健康体の人間によってはじめて可能だということであり、病人にはそんな心の余裕はないということだ。文学や文化の九割以上が健康者のためのものとしてあることを、病気がちの人でも気がついているかどうか。(清水哲男)


August 3182003

 法師蝉煮炊といふも二人かな

                           富安風生

語は「法師蝉」で秋。我が家の近所でも、ようやく法師蝉が鳴くようになった。まだ油蝉のほうが優勢だが、短かった夏もそろそろおしまいだ。子供たちの夏休みも今日で終わり、明日からは新学期。これからは、日ごとに秋色が濃くなってゆく。ちょうど、そんな時期の感慨を詠んだ句だ。夏の盛りには独立した子供らが孫を連れて遊びに来たりして、「煮炊(にたき)」する妻は大忙しだった。みんなが帰ってしまったからといって、もとより煮炊の仕事が途切れるわけではないのだけれど、気がついてみたら、いつものように二人分の煮炊ですむようになっていた。毎年のことながら、法師蝉の鳴くころにはいささかの感傷を覚えるのである。揚句を印象深くしているのは、「煮炊」という言葉の巧みな 使い方だ。多くの人の感覚では、煮炊と聞くと、料理の素材の分量として「二人」分くらいの少量は思い浮かばないだろう。少なくとも、三、四人分か、もっと大量を想像する。作者もそのようなイメージで使っていて、だから「煮炊といふも」とことわってあり、それを「二人きり」と一息に縮小したことで、味が出た。すなわち、句には何も書かれてはいなくても、読者は作者宅の真夏のにぎわいを想像することができる仕掛けなのだ。俳句という装置でなければ、とてもこのような味は出ない。外国語に翻訳するとしても、外国人にも理解できる世界だとは思うが、ポエジーの質を落とさずに短く言い換えるのは不可能だろう。あくまでも、俳句でしか表現できない味なのである。『俳句歳時記・秋の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


August 2482009

 惜しい惜しい惜しい惜しいと法師蝉

                           北 登猛

るほど、法師蝉の鳴き声はそんなふうにも聞こえる。最後は「惜しいよおっ」と駄目押しするようにして飛び去ってゆく。何がそんなに惜しいのか。作者ならずとも、だれにだって「惜しい」ことがらの一つや二つはあるのだから、それぞれの「惜しい」思いで聞くことになる。このように虫や鳥の鳴き声を人間の言葉のように聞くことを「聞きなし」と言うが、有名な例ではウグイスの鳴き声を「法華経」、ホトトギスのそれを「特許許可局」「テッペンカケタカ」などがある。Wikipediaによれば、この「聞きなし」という用語を初めて用いたのは、鳥類研究家の川口孫治郎の著書『飛騨の鳥』(1921年)と『続 飛騨の鳥』(1922年)とされているそうだ。そんなに昔のことじゃない。なかなかにオツなネーミングだと思う。句に戻れば、「惜しい」が四度も繰り返されており、このしつこさがまた残暑厳しき折りの風情を伝えていて秀抜である。今日もまた各地で「惜しい」の連発が聞こえるだろう。あと一週間経って、選挙後に身に沁みて聞きなす候補者もいるだろう。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 1282010

 卓袱台におきて宿題法師蝉

                           足立和信

師蝉が鳴きはじめると夏休みも後半にさしかかる。ツクツクホーシ、ツクツクホーシと、特徴ある声に後回しにしてきた宿題に苦しめられたむかしを思い出す。掲句の子供は怠け者の私と違って朝食を終えたあと、きれいに拭きあげた卓袱台に夏休みの宿題帳をひろげるのを日課にしていたのかもしれない。涼しいうちに宿題を済ませると午後からは虫取りやプールに、いの一番に駆けつけたが、もう宿題の仕上げに精を出さないといけない時期。朝のうちから鳴きだしたつくつく法師にせかされるように問題を解いているのだろう。ちなみにこの頃の小学校では昔に比べだいぶ宿題が少なくなったと聞くが、そうだとすると掲句の情景なども卓袱台もろとも生活から消えてしまったかもしれない。『初島』(2010)所収。(三宅やよい)


August 1782011

 夕顔やろじそれぞれの物がたり

                           小沢昭一

方に花が開いて朝にはしぼむところから、夕顔の名前がある。蝉も鳴きやみ、いくぶん涼しくなり、町内も静かになった頃あいに、夕顔の白い花が路地に咲きはじめる。さりげない路地それぞれに、さりげなく咲きだす夕顔の花。さりげなく咲く花を見過ごすことなく、そこに「物がたり」を読みとろうとしたところに、小沢昭一風のしみじみとしたドラマが仄見えてくるようだ。ありふれた路地にも、生まれては消えて行ったドラマが、いくつかあったにちがいない。「源氏物語」の夕顔を想起する人もあるだろう。夕顔の実は瓢箪。長瓢箪を昔は家族でよく食べた。鯨汁に入れて夏のスタミナ源と言われ、結構おいしかった。母は干瓢も作った。昭一は著作のなかで「横道、裏道、路地、脇道、迷路に入って、あっちに行き、こっちに行き、うろうろしてきたのが僕の道」と述懐しているけれど、掲句の「ろじ」には、じつは「小沢昭一の物がたり」が諸々こめられているのかもしれない。とにかく多才な人。掲句は句碑にも刻まれている。昭一は周知のように「東京やなぎ句会」のメンバーだが、俳句については「焼き鳥にタレを付けるように、仕事で疲れた心にウルオイを与えてくれる」と語る。他に「もう余録どうでもいいぜ法師蝉」という句もある。蕪村の句に「夕顔や早く蚊帳つる京の家」がある。『思えばいとしや“出たとこ勝負”』(2011)所載。(八木忠栄)


September 1592011

 胃は此処に月は東京タワーの横

                           池田澄子

んだ空に煌々と月が光っている。ライトアップされた東京タワーの横にくっきりと見える満月は美しかろう。ただ、この句は景色がメインではない。胃が存在感を持って意識されるのは、胸やけを感じたり、食べ過ぎで胃が重かったりと、胃が不調の時。もやもやの気分で、ふっと見上げた視線の先に東京タワーと月が並んでいる、あらっ面白いわね。その瞬間の心のはずみが句に感じられる。どんより重い胃とすっきり輝く月の対比を効かせつつ、今、ここに在る自分の立ち位置からさらりと俳句に仕立てるのはこの作者ならではの技。ただその時の気持ちを対象にからませて述懐すれば句になるわけではない。この句では「胃は此処に」に対して「月は東京タワーの横(に)」の対句の構成に「横」の体言止めですぱっと切れを入れて俳句に仕立てている。短い俳句で自分の文体を作り出すのは至難の業ではあるが、どの句にも「イケダスミコ」と署名の入った独特の味わいが感じられる。「今年また生きて残暑を嘆き合う」「よし分かった君はつくつく法師である」『拝復』(2011)所収。(三宅やよい)


June 2762012

 朝顔の夢のゆくへやかたつむり

                           中里恒子

たつむりの殻の螺旋は右巻き? 左巻き? ――大部分は右巻きだそうだ。それはともかく、かたつむりは梅雨の今頃から夏にかけて大量に発生してくる。かたつむりは可愛さが感じられても、ヌメ〜〜としていて必ずしも美しいものとは言えない。掲句は「朝顔の夢のゆくへ」という美しい表現との取り合わせによって、かたつむりにいやな印象は感じられない。それは朝顔の夢なのだろうか、かたつむりの夢なのだろうか、はたまた人が見ている夢なのだろうか。螺旋状の珍しい夢だったかもしれないけれど、どんな内容の夢だったのだろうか。そこいらの解釈は「こうだ!」と声高に決めつけてしまっては、かえって野暮というもの。ついでに「朝顔」(秋)と「かたつむり」(夏)の季重なり、そんなことにこだわるのも野暮というものでげしょう。文人による俳句は、そういうことにあまりこだわらないところがいい。恒子は横光利一、永井龍男等の「十日会」で俳句を詠んでいた。他に「花途絶えそこより暗くなりにけり」「法師蝉なにごともなく晴れつづく」などがある。(『文人俳句歳時記』)(1969)所載。(八木忠栄)


October 03102012

 高曇り蒸してつくつく法師かな

                           瀧井孝作

い暑いと私たちを悩ませた夏も、秋の気配がしのび寄れば法師蝉と虫の音の世界に変わり、ホッと一息。とにかく日本の夏は、蒸し暑いのだからたまらない。今年は九月半ばを過ぎても、連日気温30度以上の夏日を記録した。以前、沖縄の気温は年間を通じて関東より10度前後高かったのに、今年は沖縄より東京など東日本が1〜3度高い日が少なくなかった。私は「群馬や埼玉の人は沖縄へ避暑に行ったら?」などと呟いていた。日本列島はやはり熱帯化しつつあるのでしょうか。「高曇り」は空に高くかかった雲で曇っている様子の意味。法師蝉が鳴く秋になっても、曇って湿気が高い陽気は誰もが経験している。せめてもの救いは法師蝉が、きちんと声の「務め」を果たしてくれていることだろう。気をつけて聞けば、「ジュジュジュ……オーシンツクツク……ツクツクオーシ……ジー」と四段階で鳴いている。私の故郷では「ツクツクオーシ」を「カキ(柿)クッテヨーシ」と聞いて、柿を食べはじめていい時季とされている(その時季は必ずしも正確ではないようだが)。『和漢三方図絵』には「鳴く声、久豆久豆法師といふがごとし」とある。三橋鷹女には「繰言のつくつく法師殺しに出る」という物騒な句がある。虫の居所が悪かったのか、よほどうるさかったのだろう。平井照敏『新歳時記・秋』(1996)所収。(八木忠栄)


August 2582015

 法師蝉鳴くわ赤子の泣き出すわ

                           きくちきみえ

の「〜わ」の「わ」は詠嘆を表す終助詞。例には「泣くわ喚くわ」やら「殴るわ蹴るわ」など物騒な文字が並ぶ。たしかにあまり愉快なことには使われないようだ。掲句もまた法師蝉と赤子、さらにおそらく残暑厳しい中となると、そのやりきれなさは計り知れない。大わらわ、てんやわんや、法師蝉のBGMまで背負ってわが子が怪獣となって襲いかかってくる感じ。もうへとへと、なにもかも放り出してしまいたい。それでも人生の盛りの時代はなんとか乗り切ることができるもの。法師蝉は秋の始まりに鳴く蝉。空にはもう夏の雲の間に刷毛で掃いたような秋の雲も流れているはず。もうすぐ過ごしやすい秋が待っている。がんばれ、お母さん。『港の鴉』所収(2015)。(土肥あき子)




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