August 2081998

 千編を一律に飛ぶ蜻蛉かな

                           河東碧梧桐

なみに「千篇一律」の原意は「多くの詩がどれも同じ調子で変化のない」こと。転じて、多くの物事がみな同じ調子なので面白みがない様子をさす(作者は「千編」と書いているが意味は同一)。なるほど、蜻蛉の飛ぶ様子はみな同じ調子で面白いとは言えない。飽かずに眺めるというものとは違う。碧梧桐は正岡子規の近代俳句革新運動の、より改革的な側面を担った。子規の提唱した視覚的写生を、より実験的に立体的に展開することに腐心した。後に門流からは「新傾向俳句」が勃興してくる。つまり、彼は俳句表現に常に新しさを求め続けた人である。その意味では、この句も当時にあっては相当に新しい手法で作られたものだ。機智に富んだ方法である。が、いま読んでみると、どこか物たりなさが感じられる。「言いえて妙」と膝を打つわけにはいかないのだ。はっきり言って、古い。それは「千篇一律」という古い言葉のせいではなくて、「千篇一律」をこのように使ってみせたセンスが古いのだ。多くの碧梧桐の句にはこの種の古さが感じられ、それは「新傾向俳句」にもつながる古さである。この人の句を読むたびに、時代の新しい表現とは何かを考えさせられる。新しさは「千篇一律」の温床でもある。『碧梧桐全句集』(1992)所収。(清水哲男)




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