August 1881998

 はだかにて書く一行の黒くなる

                           小川双々子

だかで物を書く。ハタから見ればいささか滑稽な姿かもしれないが、珍しいことではない。私にも、ずいぶんと経験がある。汗がしたたるから、書いた文字はにじんで黒くなる。現象的には、それだけのことを書いた句だ。でも、それだけのことを書いた句が、なぜ読者の心にひっかかるのだろう。私の考えでは、はだかが人間の原初の姿であるのに対して、文字は原初から遠く離れた着衣の文化だからだと思う。すなわち、着衣を前提にして、文字による表現は幅と深みを獲得してきた。はだかで暮らせる人には、複雑な文字表現など必要はないのである。はだかで原稿などを書いた体験からすると、自分で自分が笑えてくるような感じがあって、実に不思議な精神状態になる。そしてその次には、はだかでいる自分が、まぎれもなくいつかは消滅する生物であると自覚され、汗ににじんだ黒い文字列がひどく虚しく見えてきてしまう。あえて一言で、この心境を述べるならば「黒い孤独」とでも言うしかないようだ。これを気障な台詞と感じる人は、幸福な人である。人間の着衣文化を、当たり前だと信じて疑わない人である。皮肉で言うのではない、念のため。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)




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